神の主権に対する情熱 パート2 

(以下は録音メッセージから書き起こしたものです)

神の主権に対する情熱 パート1の復習

神は神中心であられる

昨日、氷河に火をつけることと、すべての人々の喜びのため、すべてのうちにある神の主権に対する情熱を広めるため、神はすべてのことをご自身のみ名の栄光のために成される、と強調しようとしました。神は神をたたえられます。この全世界で神に対して最も情熱的なのは、神ご自身です。それが要点でした。『パッション'97』は、私が理解する限り、神の神ご自身に対する情熱に関する集会です。主が成されるすべてのこと、つまり創造から終わりまでは、主がご自身のみ名の栄光を示し、掲げることを念頭に、成されています。

神の神中心さは愛の無いものではない

昨日の二つ目のポイントは、それは愛の無いものではない、ということでした。なぜ神がご自身をこのようにたたえることが愛の無いことではないのかと言うと、それは神を知ることと、神をたたえることに飲み込まれて行くことが、人の魂を満足させるからです。「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:11)それゆえもし神が、主がどのようなお方であるかを私たちが見えるところまでご自分を引き上げることが、私たちの魂を満足させるのであれば、神こそこの全世界で唯一、自画自賛が最高の美徳であり、愛の本質であるお方です。

あなたは主の自画自賛を真似できないでしょう。他人を楽しませようと、あなたが自分を自賛すればするほど、憎たらしい、愛の無い者になります。なぜならそれはあなたがその人たちの魂を真に満たすことのできるお方から、その人たちの注意をそらすからです。それゆえ、私たちは神が神であられることを真似てはいけません。神だけがこの全世界で、自画自賛が愛の本質と土台であられる、唯一、無条件にユニークなお方です。

私たちは、人を中心とするような人間的愛のように、主に私たちを愛して欲しいと思うかも知れませんが、主は神でありつつそのように私たちを愛することはできません。神ご自身、無限に価値のあるお方です。神ほど価値のあるものは他にはありません。それゆえ主は、ぶっちゃけた話、あなたを必要とすることをまったく無く、壮大で、輝かしく、すべてを満たし、自己充足されるお方であられます。これが恵みの基盤です。もしあなたが自分を恵みの中心にすると、それは恵みでは無くなります。神中心の恵みが、聖書的恵みなのです。

私の喜びは私を全世界の中心にする神のうちにありません。私の喜びは、神が永遠に全世界の中心であられ、私をご自身との交わりに引き寄せてくださり、永遠の人生の中でずっと主を見て、主を知り、主を楽しみ、主を宝とし、主に満足することのうちにあります。

それが昨日のメッセージでした。

神の、人類のための神中心さの意味

さて今日は・・・もし私がこれまで述べてきたことが本当であるならば、それが聖書的であるならば、あなたの人生にとって驚くような意味があります。それは、この場所を去って自分の教会や大学に戻るとき、あなたが何をしなければならないかと言うと、神にあってできる限り幸せでいることを、自分の使命にすることです。ですから神のみ名によって、皆さんをお招きします。神があなたのうちに与えてくださる力を尽くして、楽しみを追求することを、自分の永遠の使命としてください。

私の人生の問題は、そしてあなたの人生の問題は、自分の役割を果たさなければならないときに、楽しみを追求してしまうことではありません。それがあなたの抱えている問題に関する私の、あるいは神の、または聖書の診断ではありません。C.S. ルイスは『栄光の重み』と呼ばれる、人の人生を変えてしまうような説教の中で、私たちの問題は、私たちが自分の楽しみを熱心過ぎるほど追求していることではなく、私たちが中々楽しまないことである、とそれを正しく言い当てています。私たちは海辺での休暇がどのようなものか想像もつかないため、スラム街の泥まんじゅうをいじくっている子供のようだと彼は言います。私たちの問題は、黄金の現実が私たちの目の前に立っているのに、アルミ製の偶像にしがみついていることです。私たちは中々楽しみません。この世の問題は快楽主義ではありません。快楽主義が、本当に満足させてくれるもののところまで到達しないと言うのが問題なのです。それが私の今朝のポイントです。

もしそれが本当であるならば、その意味は、あなたは朝起き上がって、ジョージ・ミューラーのように、外出する前にそして何かをし始める前に、「神にあって幸せな心を私は持たなければならない。そうでなければ私は誰の役にも立たない。それを用いて、私の欲求と心の虚しさを満たすんだ」と言うのです。もしあなたが愛の人になりたいのなら、もしあなたが他人のために喜んで命を投げ出す人になりたいのなら、神にあって幸せであることを自分の目標としなければなりません。私たちは中々喜ぶことがない、それが今日のメッセージです。

私たちはそんなちっぽけな、長生きしない、不十分な、満足できない楽しみを受け入れてしまい、私たちの喜ぶ能力は、神によって動かされたことがない、変えられていない自分の心を隠すかのように、喜びのない義務を美徳の本質としてしまうほどに、萎縮しているのです。それが現実逃避であることが分かりますか?私は今朝、道徳的行為のうちに自分の利益を求めれば求めるほど、あなたはその徳を失うと言った、啓蒙主義の哲学者たちである、ストア派[禁欲主義]とインマニュエル・カントに反対するキャンペーンを行っています。それは聖書にはありません。そしてそれはそこら中の礼拝、徳、勇気、また神中心さを破壊します。それは人間、自分の義務を、神が自分の魂を満たしてくださると考えたことのない徳のある人を、持ち上げます。何たることでしょう!私たちの心からそれが永遠になくなってしまいますように。

私は福音派の空気に漂っているものに反対するキャンペーンを行っています。25年ほど前からこのキャンペーンをしており、依頼ずっと続けていますが、それで家族を養い、その上に教会を建て、それに関して本を著し、それを生きようと努力しています。少しずつ反論が起こっています。そうやって人は成長するのです。皆さんのうちの何人かの方が、自分の世界がこの集会でひっくり返ったと私に話してくれました。自分のパラダイムが揺さぶられたと。コペルニクス革命がもうすぐ起こりそうで、まさにそのようにして人は変わり始めるのです。異論の後にまた異論、もしかすると15年かかるかも知れません。私は1968年に、ダン・フラーやC.S.ルイス、ジョナサン・エドワーズ、ダビデ王、聖人パウロ、そしてイエス・キリストの助けで、これらを部分的に見始めました。次から次へと異論が持ち上がるたびに、私は縮み上がり、そして聖書を開いて涙を流し、号泣し、格闘し、質問し、祈り、そして話す、そうやって私の頭は回転してきたのです。そうやって異論がビジョンを少しずつ精錬するのです。

異論

  1. 聖書は心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして自分の喜びを追い求めよと本当に教えているのか。あるいはそれは人の注意を引こうとするジョン・パイパーの巧みな説教法なのか?
  2. 自己否認はどうであろうか?イエス様は、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨てなさい」と言われなかっただろうか?
  3. それは人間の感情に必要以上の強調を置くことにならないだろうか?キリスト教は基本的に、献身と決心を意思表示する宗教ではないか。
  4. 義務としての神に仕えるという高貴な概念は、それが辛く、やる気がしないとき、どうなるのか?
  5. これは神ではなく自分を物ごとの中心にするのではないか?

異論に対する応答

1. 聖書は自分の喜びを求めるべきだと本当に教えているのか?

私の答えは、そうです、聖書は少なくとも4つの方法で教えています。

a) 命令を持って

詩篇37:4を考えてみてください。「主をおのれの喜びとせよ。」これは提案ではありません。命令です。もしあなたが、「姦淫を犯してはならない」というのを自分が従うべきものであると信じるなら、「主をおのれの喜びとせよ」と言うのにも従うべきです。

あるいは詩篇32:11、「正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべての心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ」、または、詩篇100、「喜びをもって主に仕えよ。」それは命令です。「喜びをもって主に仕えよ!」喜びをもってあるいはそれ無しに主に仕えることに無関心であればあるほど、あなたは神に対し無関心であります。主はあなたに、喜びをもって主に仕えなさいと言っておられます。あるいはピリピ4:4、「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」とも言われます。

それは聖書中で見られます。命令です。それが聖書がこれを教える最初の方法です。

b) 脅しを持って

ジェレミー・テイラーはかつて、「神はもし私たちが幸せでなかったら、恐ろしいことを起こされると脅される」と言いました。私は初めてそれを聞いたとき、うまく言ったものだと思いましたが、それはうまい言葉ではありません。申命記28:47を引用したもので、それは衝撃的です。「あなたがすべてのものに豊かになっても、あなたの神、主に、心から喜び楽しんで仕えようとしないので、あなたは飢えて渇き、裸となって、あらゆるものに欠乏して、主があなたに差し向ける敵に仕えることになる。主は、あなたの首に鉄のくびきを置き、ついにはあなたを根絶やしにされる。」もし私たちが主にあって幸せでなかったら、神は恐ろしいことを起こされると脅されます。それが快楽主義の認可でなかったら、一体何でしょう?神にある自分の喜びを力の限り追求することを自分の人生の使命とすることを、正当化するものでしょうか?

c) 救いに至る信仰を、イエス様にあって神はあなたの味方であられるそのすべてに基本的に満足することであると、示すことによって

例えば、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」もしあなたが神を喜ばせたいのなら、信仰を持たなければなりません。信仰とは一体何でしょう?近づく私に、報いてくださるという深い確信を持って、神に近づくことです。もしあなたがそれを信じないのであれば、あるいはもしあなたが他のいかなる理由を持って神に近づくのなら、神をお喜ばせすることはできません。

あるいはヨハネ6:35でイエス様が「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」と言われるみことばをとって見てください。「わたしを信じる者は、どんなときにも、決して渇くことがありません」というみことばに印をつけてください。信仰とは何を意味すると言っているでしょうか?信仰とは何でしょう?ヨハネの神学では、信仰とは、何ものも満たすことのできない私たちの魂を満たしてくださるイエス様のみ前に来ることです。それが信仰です。信仰とはそれ以外の何ものでもありません。私はキリスト教の基本を、皆さんがあまり耳慣れない言葉で紐解いています。

d) 神のうちにある楽しみを追求することをやめるということが狂気の沙汰であるとして、罪を定義することによって

罪とは神のうちにある楽しみを追求することをやめる、狂気の沙汰です。以下はそれを示す聖書箇所です。エレミヤ2:12―13、「天よ。このことに色を失え。おぞ気立て。干上がれ。ー主の御告げーわたしの民は二つの悪を行った。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。」悪とは一体何か、私に教えてください。宇宙をがくぜんとさせる、神の御使いに「そんなばかな!」と言わせる悪の定義とは、一体何でしょう?すべてを満足させる源であられ、生ける水であられる神を見て、「ありがとう、でもいらないです」と言って、テレビやセックス、パーティー、酒、金、名声、都市近郊の家、休暇、新しいパソコンのプログラム、に向かって、「やった!」と言うことです。それは狂気の沙汰です!そしてそれは、エレミヤ2:12によると、天にいるものすべてを愕然とさせるのです。

少なくともその4つの方法で、ジョン・パイパーが今朝、神のうちにある満足を追求することに人生をささげなさいと言うのは、本当だと聖書は言っています。ですから異論その1は成り立ちません。

2. 自己否認はどうなるのか?

「イエス様はマルコ8:34で、『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい』と言われたじゃないか?十字架が自分の死ぬ死刑所。それはやかましい姑や、悪いルームメイト、骨の病気ではない。自己の死である。それゆえパイパーよ、魂の満足を追求することを人生の使命とせよと説くお前は異端だ。」私もそう感じたことがあります。でも(マルコ8章の)残りの節を読みます (時々文脈を読むと理解できます)。「[なぜなら]いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」ここでの論理は何でしょうか?この箇所でのイエス様の論理は一体何でしょうか?

その論理は以下のとおりです。

--「わたしの弟子たちよ、いのちを失ってはならない。自分のいのちを失ってはならない。救いなさい!自分のいのちを救いなさい!」

―「どうやってですか?・・・どうやってですか、イエス様?」

--「それを捨てるのです。」

--「分かりません・・・意味が分かりません、イエス様。」

--「わたしの弟子たち、愛する者たちよ。わたしが言っているのは、わたし以外のすべてを捨てるという意味で自分のいのちを捨てると言うことです。『一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかしもし死ねば、豊かな実を結びます。』この世に死になさい。名声に死になさい。富に死になさい。罪深いセックスに死になさい、ずるをして出生することに死になさい、人から認められたいと思うことに死になさい。死んで、わたしを得なさい。」

私は自己否定を信じます。金を得るために、ブリキの自分を否定しなさい。岩の上に立つために、砂の自分を否定しなさい。ワインを得るために、まずい水である自分を否定しなさい。完全な自己否定と言うのはありません。イエス様もそのようには言われませんでした。私は自己否定を信じます。イエス様ご自身が言われる、マタイ13:44のこのみことばを信じます。「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」あなたはそれを自己否定と呼びますか?そうです!彼は自分の持ち物すべてを売り払ったのです。キリストを得るために、彼はすべてのものをごみやくずとみなしたのです。

ですから、そうです、それが自己否定です。そしていいえ、それは自己否定ではありません。この世を愛する自分という、十字架にかけられなければならない自己があります。しかし新しい自己、すなわち、キリストをすべてのものに勝って愛し、主にのみ満足を見出す自分は、その自己を殺さないのです。それが新しい被造物です。その自己を神で満腹させてください。

ああ、私は自己否定を信じます。若い金持ちには理解できなかったのですが、イエス様がそのとき教えられた自己否定を信じます。

「帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。」そして彼はそれをしようとしませんでした。イエス様は弟子たちに、「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」と言われます。弟子たちはものすごく驚いて、「それでは、だれが救われることができるのだろうか」と言います。イエス様は、「それは人にはできないことです。だれもわたしが言っている心を自分で持つことはできません。でも神にはできます」と言われ、「どんなことでも神にはできるのです」と言われます。するとペテロが甲高い声で、「私たちはすべてを捨ててあなたに従って来ました。私たちはどうでしょうか?すべてを犠牲にしたのです」と言います。どのような口調で話されたのか、知ることができたならと思いますが、イエス様は、「ペテロよ。わたしのために、また福音のために、この世からの迫害で、家、父、母、兄弟、姉妹、畑や子を捨てた者で、永遠のいのちという後の世で、その百倍の母、姉妹、兄弟、土地、子を受けない者はありません。犠牲にしたものの何千倍もの報酬を受けないものは誰もいません。自分の首が切り落とされるとき、自分を可哀想に思ってはいけません」と言われます(マルコ10:17―31)。

その通り、私は自己否定を信じます。自分が神にあって十分に満足するのを妨げるすべての自己を否定することを信じます。そしてそれが聖書の言うところの自己否定であると、私は理解しています。偉大な宣教師、ディビッド・リビングストンとハドソン・テイラーが、妻を亡くし、健康を損ない、一つのこと以外すべてを失った晩年、「私は犠牲を払ったことはありません」とケンブリッジ大学の生徒らやあらゆる人々に言ったことは、まったくその通りです。そうです、その通りなのです!彼らが何を言っているのか、私は分かりますし、皆さんもお分かりになると思います。若いながらにして自分の命を投げ出したジム・エリオットが、「失うことのできないものを得るために、維持し続けることのできないものを与える人は、愚か者ではない」と言うのは、まったくその通りです。それが自己否定について私が信じるものです。ですから異論その2は成り立ちません。

3. 人の感情に強調を置きすぎてしまわないか?

「キリスト教とは基本的に、献身という意思の決断ではないだろうか?感情というのは後についてくる、随意的な、飾りではないか?パイパーさん、あなたの語るキリスト教とは、感情を突出した聖書的でないところまで引き上げると思う。」

でも聖書を読み、議論している最中に聖書を読むと助けられますが、以下のものを私は見つけました。

  • 私たちは喜んでいるように命じられています。ピリピ4:4、「主にあって喜びなさい。」

  • 私たちは望みを持つように命じられています。詩篇42:5、「神を待ち望め。」

  • 私たちは恐れを持つように命じられています。ルカ12:5、「ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。」

  • 私たちは平安を持つように命じられています。コロサイ3:15、「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。」

  • 私たちは熱心になるよう命じられてします。ローマ12:11、「霊に燃え、主に仕えなさい。」これは選ぶ余地のあることではありません。飾りでもありません。命令です!「主に仕えなさい。」

  • 私たちは悲しむよう命じられています。ローマ12:15、「泣く者といっしょに泣きなさい。」私たちには選択の余地がありません。泣かなければならないのです、泣く者と共に泣かなければならないのです。

  • 私たちは慕い求めるように命じられています。1ペテロ2:2、「純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。」それは選択肢ではありません。「自分のうちにその慕い求めを起こさせることができないよ。これが命令なはずがない。」間違っています!その通り、自分の意志で自分のうちにそのような感情を起こさせたり消したりすることはできません。でもいいえ、それでもそれは義務なのです。そこに、昨夜聞いた、私たちの絶望的な状態があるのです。

    今私が言っている、私たちが命じられていることのすべては、この場の意志力や決断や献身でできることではありません。奇跡の力のみによってできることです。絶望的でありませんか?全能の神に、自分ができないことをしなさいと言われるのは、絶望的ではありませんか?もしあなたの心が正しければ、あなたはそれをすることができます。私たちは堕落しており、優しい心を持ちなさいと命じられています。「互いを思いやり、親切にし合いなさい。」許しは「ごめんなさい」と言うことだけではありません。それを心で感じなければならないのです。

  • 私たちは感謝をささげなさいと命じられています。クリスマスの朝におばあちゃんからプレゼントをもらった子どもを想像して見てください。それは黒の靴下でした!ウエッ!クリスマスに靴下、しかも黒の靴下をもらって喜ぶ子はいません。あなたは「おばあちゃんにありがとうと言いなさい」と言います。子どもは「靴下ありがとう」と言います。そのようなことを聖書は言っているのではありません。子どもは意志力で「ありがとう」と言うことができます。でも意志力でその靴下を心から感謝することはできません。あなたも、エペソ5:20の「すべてのことについて・・・感謝しなさい」という命令に従って、意志力で神に感謝することはできません。全能の神が働いてくださらなければ、私たちはおしまいです。

異論その3?私はそうは思いません。聖書が教える以上に気持ちや感情を持ち上げているとは、私は信じません。アメリカ的決断力、献身で苦しむ、「自分でできるんだ」的意志力の宗教を捨て、自分の支配を超えたものであるそれ(気持ちや感情)を、私は元の位置に戻しているのだと思います。

4. 神に仕えるという高貴な概念はどうか?

「神に仕えるというのは義務ではないのか?パイパーさん、あなたの言っているキリスト教は仕えることには聞こえないよ。それは仕えるのが大変な時に神のみこころを成す、と言うチャレンジを受けて立つという、同じ義務である仕えることのようには聞こえない。」

それに対し、「仕える者のたとえを形作っている聖書箇所を一緒に見てみましょう」と答えることを、私は学びました。給仕する者であれ、息子や娘であれ、友人であれ、自分の神との関係についてのすべてのたとえは、もしそれを強調すると、間違いになります。中にはもしそれを強調すると、本当である要素もあります。仕える者のたとえの中で、間違いと事実であるものとは、一体何でしょうか?

神に仕えるとき神を冒とくすることにならないため、分けるべき二つのことを見分けさせてくれる聖書の箇所は、使徒17:25、「(神は)何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです」です。神には仕えられる必要はないのです、皆さん。気をつけてください。主にはあなたやあなたの奉仕が必要であるかのように、仕えられる必要はおありになりません。主はそのようなお方ではありません。あるいは、マルコ10:45のような箇所もあります。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」主は仕えられるために来られたのではありません。気をつけてください!もしあなたが主に仕えることを誓約するなら、主の目的を邪魔することになります!ややこしいようですが、ややこしくありません。パウロはその書簡のほとんどすべてで、自分のことを主のしもべと呼んでいます。それなのに、この使徒17:25とマルコ10:45では神は仕えられる必要がないとか、人の子は仕えられるために来たのではないと言います。悪い奉仕と良い奉仕があるはずです。何が良い奉仕なのでしょうか?

良い奉仕というのは、1ペテロ4:11です。「奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。」神は何かに不自由なことでもあるかのように人の手によって仕えられる必要はありません。あなたは自分が絶えず受ける側であるかのように礼拝し、文書をタイプ打ちし、講義を聴き、車を運転し、おむつを変え、説教する方法を探さなければなりません。なぜなら与えてくださるお方が栄光をお受けになり、受ける側が喜びを得るからです。私たちは使徒17:25の、「[神は]何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって[あたかも主が受ける側であるかのように]仕えられる必要はありません」を越えてしまうときはいつでも、私たちは神を冒とくするのです。

昨日私はこの集会のリーダーのメンバーに、奉仕について語る、マタイ6:24の、「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」というみことばから、たとえを話しました。奉仕についての話しです。みなさんはどのようにお金に仕えますか?お金の必要を満たすことによっては仕えません。お金から益を得るよう、自分のエネルギーと時間と努力のすべてをもって、自分の生活を執拗に気取らせることによって、お金に仕えます。いかに利口な投資ができるか、いかにいい取引ができるか、後で価格が上がるから、今価格が下がっているものにいかにして投資すればいいか、お金があなたの源であるため、あなたはお金からできる限り益を得ることに、夢中になるのです。

もしそれがあなたのお金を貯める方法であるなら、どのようにしてあなたは神に仕えることが出来るでしょうか?姿勢を整え、自分の生活を操り、神の絶え間ない恵みの滝の下に自分を置くために、エネルギーと努力と時間と創造力を費やす、というのと全く同じです。そうすることによって、主が源であり続け、あなたが空っぽの受ける側であり続けるからです。あなたが恩恵を受ける側で、主が恩恵を施すお方であり続けます。あなたが飢えている者で、主がパンであり続けます。あなたが渇いた者で、主が泉であり続けます。あなたは神を冒とくして立場を逆転させることはありません。私たちは神がお与えくださる力によって仕えるという方法を見つけなければなりません。私は仕えているとき、受ける側なのです。そうでなければ私は神を、恩恵を受ける側に置いてしまいます。私が主に恩恵を施す者になってしまい、ということは私が神ということになってしまいます。そのような宗教は世界中にあります。ですから異論その4は成り立ちません。

5. 自分を中心に置くことにならないのか?

「あなたは自分の喜びと楽しみを追求することを話している。私たちが知っている義務とは違う、別のものを話しているが、あなたは私たちは奉仕について気をつけなければならないと言う。それは自分を中心に置くために、聖書のことばを操って巧みに扱っているようにしか聞こえない。」それはとても辛辣な批判だと思いませんか?

以下が私の答えです。今度の12月21日で、私は結婚して28年になります。ノエルを心から愛しています。本当に大変だったことと、本当に嬉しかったことなど、沢山のことを共に経験しました。私たちの十代の子どもたちが、大変な思春期を通るのを見ました。息子たちと幼い娘のことを思うと、私はすぐに泣いてしまいます。その私がたとえば、12月21日に、家に帰って来て、28本の長い茎の赤いバラを背後に隠し、玄関のベルを鳴らしたとします。なぜ私が自分の家のベルを鳴らしたのか分からずちょっと困惑した顔でノエルがドアを開け、そして私がバラを取り出し、「結婚記念日おめでとう、ノエル」と言います。「ジョニー、何て綺麗なの!どうして?」と彼女は言い、私は「それが私の義務だよ」と言います。

それは間違った答えです。巻き戻ししましょう。

[ピンポーン]

--「結婚記念日おめでとう、ノエル!」

--「ジョニー、何て綺麗なの!どうして?」

--「君のためにバラを買うことほど嬉しいことはないよ。洋服を着替えてきたら?実はベビーシッターを雇ったんだ。今夜は特別なことをするんだ。君と夜を過ごす以外僕には他にしたいことはないからね。」

それが正しい答えです。

なぜでしょう?なぜノエルは、「あなたは私が出会った中で一番自己中心なクリスチャンの快楽主義者よ!あなたが考えることは自分を幸せにすることばかり!」と言わないのでしょう?ここで何が一体起こっているのでしょうか?なぜ義務は間違った答えで、喜びが正しい答えなのでしょうか?皆さんはお分かりになりますか?

もしあなたがこれを理解することができたら、理解したのです。そしたら私はミネアポリスに戻り、神を賛美することができます。私の妻は、私が彼女で最も満足しているときに、たたえられるのです。もし私が自分の人間関係を、奉仕の関係に変えたら、彼女のうちに自分の喜びを求めない義務の関係に変えたら、彼女は軽くあしらわれることになります。神も同様です。あなたが御国へ行き、み父があなたを見て、「なぜお前はここにいるのか?なぜわたしのために自分の命を投げ出したのか?」と言われるとき、「私はクリスチャンですので、ここに来るのがわたしの義務でした」とはあなたは言わない方がいいでしょう。「他に行きたいところがありましょうか?あなた以外に行き着きたいところがありましょうか?あなたは私の魂が慕うお方です!」と言ったほうがいいでしょう。そしてそれがこの集会です。この集会は、イザヤ26:8と268の宣言を下に、二つの素晴らしいことを求めて集まった会です。それは神の、ご自身のみ名と呼び名に対する情熱と、自分の切望するものすべてにおいて満足したいという私の情熱です。それはこの全世界で揺るぐことのないものです。それらは一つであることを皆さんが見ることができたらと望みます。なぜなら神と神のみ名と呼び名は、私が主のうちに最も満足しているときに、もっともたたえられるからです。

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