祈りに専念しなさい 

希望において喜び、患難において忍耐し、祈りにおいて専念し、 1

今朝のこのメッセージでの私の単純な、人間的に不可能な目標は、皆さんのすべてが、2003年、祈りに励むようになることです。これが私の目標ですが、それは聖書が私たちをそう召しているからです。聖書箇所は比較的長い奨励のうちの一部である、ローマ12:12です。私たちは、「希望において喜び、患難において忍耐し、祈りにおいて専念(proskarterountes)」するべきであると言われています。

皆さんの訳では、「たゆまず祈りなさい」とか、「絶えず祈りに励みなさい」と言われているかも知れません。それらはすべて、その言葉のイメージをとらえています。「専念」というのはいい訳です。同じ言葉がマルコ3:9、「イエスは、大ぜいの人なので、押し寄せて来ないよう、ご自分のために小舟を用意して(proskartere)おくように弟子たちに言いつけられた」 2 と言うところで用いられています。小舟は群衆が脅威となった時にイエス様を連れ出す目的のために、取り分けられたもの、つまり、ささげられたものでした。「ささげられた」というのは、ある任務のためにささげられた、あるいは備えられた、と言う意味です。

さて、小舟はそこにおかれたままです。でも人はそのようには献身しません。この言葉が人に用いられるとき、それは指定や指名と言う意味だけでなく、決められた仕事における行動と、それを続行することにおいて打ち込む、あるいは身をささげると言うことを意味します。それゆえ例えばローマ13:6で、パウロは次のように政府の役割について語ります。「同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。」すなわち、彼らはある任務に神によって指名されているだけでなく、その任務に打ち込んでいるのです。

注目すべきは、新約聖書でこの言葉が10回用いられているうちの5回は、祈りに適用されています。ローマ12:12以外にもある他の箇所に耳を傾けてください。

  • 使徒1:14(イエス様の昇天の後、弟子たちがエルサレムで御霊の注ぎを待っているとき)、「この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。」

  • 使徒2:42(エルサレムの初代の改宗者)、「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」 3

  • 使徒6:4(使徒達はこう言った)、「私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」

  • コロサイ4:2(パウロは私たちすべてにこう言った)、「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。」 

新約聖書のみことばから私たちは、普通のクリスチャン生活というのは祈りに専念した生活であると言うことができます。ですから皆さんは2002年から2003年に移行するにあたり、「自分は祈りに専念しているだろうか」と質問すべきです。

それは、妻に献身するというのが、妻と一緒にいることがすべてという意味ではないのと同じように、祈ることがすべてである、という意味ではありません。しかし夫の妻に対する献身は彼の人生すべてに影響を及ぼし、夫は様々な方法で自分を妻にささげます。ですから祈りに専念するというのは祈ることがすべてという意味ではありません(パウロは他の箇所、1テサロニケ5:17で、「絶えず祈りなさい」と実際に言いますが)。それは祈りに専念しているように見える祈りのパターンがあることを意味しています。それはすべての人にとって同様のパターンではありません。でも何か重要なものです。祈りに専念することは、祈りに専念していないこととは違って見えます。神はその違いを知っておられます。主が、私たちが祈りに専念してきているか、「祈りに専念した」と公平に言うことができるような祈りのパターンが自分の生活にあるかどうか、私たちに釈明を求められます。

私たちのほとんどが、ある種の祈りを「祈りに専念する」と呼ぶことができないと、認めると思います。人生の峠に差し掛かった時だけ祈るというのは、祈りに専念するパターンではありません。食事の時だけ祈るというのはパターンですが、それはパウロが教会を励まして言う、「祈りに専念しなさい」というものと一致するでしょうか?「私はこれから就寝しますが」という一日の最後の祈りは、恐らく「祈りに専念する」ことではないでしょう。うまくいく時があればそうでない時もある、「主よ、助けてください」という、駐車出来る場所が必要なときに車の中で祈る祈りは、「祈りに専念する」ことではありません。それらはすべて良いものです。しかしパウロが「祈りに専念しなさい」と言うとき、キリストに従う者たちからもっと違う何かを期待しているというのは、皆さん認めると思います。

私たちは先週、キリストの十字架、主の罪人の身代わりに死なれたその死が、すべての祈りの土台であると言うことを見たことを、忘れないでおきましょう。もしキリストが私たちの代わりに死なれなかったのなら、なぜ、あるいはどのようにして私たちが祈るのかという質問に対する満足な答えはありません。それゆえに私たちは「イエス様の御名によって」祈るのです。

私は、祈りの取り上げることの可能な障害をよく考えているうちに、それらの障害のいくつかは「なぜ祈るのか?」と言う、他のいくつかは「どのようにして祈るのか」と言う質問のカテゴリーに入ることに気づきました。今朝はその「どのようにして」に注目したいと思います。「なぜ」という質問がそれほど重要でないわけではありませんが、なぜ祈らなければならないのかということに関する神学的答えをすべて見出すことができても、私たちはなおかつ、生活において祈りに関し無関心で、だらしないままでいます。ですから「なぜ」と言う質問に対する短い答えを出して、それから実践的な「どのようにして」という質問に注目します。2003年、「祈りに専念する」ことにおいて、皆さんが新しいレベルの冒険へとかき立てられるよう祈ります。

なぜ祈るのか?

なぜ私たちが祈りに専念しなければならないのか、3つの大まかな答えから始めます。

  1. 聖書が私たちに祈りなさいと言いますし、私たちは神がおっしゃることに従わなければなりません。他の多くの箇所と共に、この聖書箇所も「祈りに専念しなさい」と言います。もし私たちが祈らないのであれば、それは聖書に従っていないことになります。それは愚かで危険です。もし祈るのが楽でないのであれば、私たち他の者たちと同様に、自分を一般的に堕落しており罪深い者だと認めてください。そして、戦うのです。自分に説教するのです。自分の罪と弱さとこの世的傾向に支配を許さないでください。神は「祈りに専念しなさい」と言われます。このために戦ってください。

  2. あなたの人生とあなたの家族、この教会の他の教会、世界宣教の機会、そして私たちの文化全体におけるニーズは非常に大きくまた必死です。ほとんどのケースにおいて天と地獄の、信仰と不信心の、生と死のどちらかがかかっています。パウロの、ローマ9:2自分の滅び行く同胞に対する嘆きと苦悩を思い出してください。またローマ10:1では、彼は彼らのために熱心に祈り、「兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです」と言うのを思い出してください。私たちが祈るとき、救いがかかっているのです。あなたが人生は戦いであるということを理解しない限り、祈りが何のためにあるのかを知ることはありません。祈りの一番大きな障害の一つは、私たち多くの者にとって、人生がごく普通にスムーズに行き過ぎることです。「戦いの最前線は遥か向こうにあり、私のこの小さな平穏と満足に満ちたシャボン玉の中ではすべてがうまく行っている。」ああ、神が私たちの目を開いてくださり、私たちの周りのニーズと祈りの可能性の偉大さを見させてくださいますように。

  3. 3つ目の祈る理由は、私たちが祈る時に神がみわざを成してくださると言うことです。神は私たちが5年かかって出来る以上のことを、5秒間ですることがおできになります。ああ、私はこれをこの過去数年でどんなに教えられたことでしょう。説教を準備する間、あるいはカウンセリングの問題に直面する中で、あるいは伝道している会話中、何度も頭をたれて神に懇願し、そして祈らない限り起こらなかったであろう突破口を次々と体験するのは、何と素晴らしいことでしょう。やらなきゃいけないことがあり過ぎて、すべてをやり通すことが出来るかどうか分からないと、即座に仕事に取り掛からなくてはと焦燥感に包まれ熱心になるとき、無理やり自分の頭を聖書的そして論理的に考えるよう仕向け、仕事に取り掛かる前に膝をついて祈る時間を取り、そして膝をついている時に、問題をどのように取り組めばいいか、あるいはメッセージをどのように組み立てればいいか、あるいはどのように問題を取り扱えばいいか、あるいはどのように神学的問題を解決すればいいか、というアイディアが頭の中に押し寄せて来る、という教訓を体験することは、何と重要なことでしょう。そうすれば、5秒のひらめきで解決することを、何時間も働き、自分の頭を壁にぶつけてイライラする必要がないのです! 神は私たちにきつい労働を回避させてくださると言っているのではありません。祈りはあなたに、あなたが一人で出来るより5000倍も実りのある仕事をさせてくれることが出来ます。

1)神は私たちに祈るようお命じになる、2)ニーズは大きく、永遠の事がらがかかっている、3)神は私たちが祈る時に、私たちが何時間も、何週間も、あるいは時によっては何年もかかってできることを、数秒の間で成してくださるーもっと他にもありますが、これらが「なぜ祈るのか」に対する答えです。

まだ他にも、ここでは扱うことのできない答えるべき祈りに関する沢山の質問があります。そのため、『デザイアリング・ゴッド(Desiring God)』や『神の喜び(The Pleasures of God)』、『国民が喜びますように(Let the Nations Be Glad)』には祈りについて触れたの長い章がありますし、また『神を切望するー祈りと断食を通して神を慕い求める(A Hunger for God: Desiring God through Prayer and Fasting)』と呼ばれる本があるのです。特に、祈りがどのようにして無条件の選びと共に人々の救いとぴったり合うのか、悩んでおられたら、『神の喜び(The Pleasures of God)』の217―220ページを直接読んでください。

どのようにして祈るのか

今朝の残りの時間は、「どのようにして祈るのか」ということを話したいと思います。実践的な、皆さんが考えたこともないような、あるいは「祈りに専念する」ことに一生懸命挑戦したんだけれども続かなかったという皆さんの意欲を、聖書的可能性でかき立てたいと思います。

これは「我が道が正しい」と言う狭い考え方抜きに、祈りに専念するということが一体何を意味するのかを描いた、私の試みです。私たちはみなそれぞれ違います。一日のスケジュールもそれぞれ違います。家族構成も違います。日々の要求も違い、それぞれ人生の違った局面にいます。霊的成熟さのレベルもそれぞれ違いますし、また誰も一晩で成熟する人はいません。この先5年間、祈りに専念することであなたがするかも知れないことを、後で振り返って、自分はどのようにしてこの余裕のない期間を生き残ることが出来たのだろうと思うかも知れません。でも私たちすべて、前進することができます。パウロは「あなた方はよくやっていますが、もっとやりなさい」と、好んで教会に書いています(ピリピ1:9、1テサロニケ4:1、10)。そして「もっとやらなければならない」ことがあるとしたら、それは祈りに専念することです。

この実践的な提案を、5組にし、それぞれの頭文字をとって「フェーズ("F A D E S")」というに置き換えます。この「フェーズ」と言う言葉に特別な意味はありません。たまたまそのようなつづりになっただけです。でも無理やり言うと、これら5組なしに、祈りに専念すると「フェーズ(消えて)」して行くと言うことができます。

F - 自由に、そして体系的に

ここでは私の念頭には、体系化された祈りと体系化されていない祈りがあります。祈りに専念するというのは、あなたが祈る時に祈る言葉が、時には型にしばられない自由な祈りで、また時には型にはまった、体系的な祈りであることを意味します。もしあなたの祈りが自由なだけであるならば、あなたは恐らく浅い、ありふれた者になるでしょう。もしあなたの祈りが型にはまったものだけであるならば、あなたは恐らく機械的で中身のない者になるでしょう。両者とも、とても重要な祈り方です。どちらか一方ではなく、両方共、[必要]です。

自由と言うのは、定期的にあなたが自分の魂を神に注ぎ出したいと感じ、そうすることです。あなたは何のセリフもガイドラインも、祈りのリストも本もいらないと感じます。必要とするものが多くありすぎて、事前に設定された型がなくても自由に転がり出てくるのです。これは良いことです。これなしに、私たちがキリストとのまことの関係を持つことが出来るとは、考えられません。コミュニケーションのすべてがリストや本から読まれるような、あるいは覚えた教科書からのみ語られるような結婚や友情を、実際に想像することができますか?それはまさに形だけのものです。

その一方で、形式の助けなしに祈ることが出来るから、自分は霊的に深いとか能力があるとか、経験豊かであるとか自制心があるなどと、決して思わないでください。4種類の形式が私の念頭にありますが、皆さんがそれらを活用することを願います。

形式その1―聖書 聖書を祈ってください。聖書的祈りを祈ってください。私たちは今週、エペソ3:14―19の祈りから、私たちの祈りを築き上げています。

「こういうわけで、私はひざをかがめて、15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」

これを覚えて、頻繁に祈ってください。「主の祈り」を祈り、祈るごとに一つ一つの文を自分の言葉に置き換え、あなたが重荷を負っている人々に当てはめて祈ってください。「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神であるあなたを愛することができるよう、私を助けてください。私の妻、子供達、教会の長老たち、宣教師たちを助けてください」と、聖書の命令を祈ってください。「主よ、天における、地における、あなたのいっさいの権威を持って、あなたが世の終わりまで共におられるという約束の美しさを、私たちの宣教師たちに感じさせてください」と、聖書の約束を祈ってください。「主よ、『目をえぐり出してしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体がゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです』とあなたが教えられるように、私に切迫感を持って情欲と戦う意欲をお与えください」と、聖書の警告を祈ってください。自分の前で聖書を開いて、聖書の片側に肘をつき、もう一方にも肘をついて、聖書の一句一句を賛美、感謝、懇願、悔い改めにして祈ってください。

形式その2―リスト リストを祈ってください。私には祈るべき人々のリストと、祈るべき必要のリストが念頭にあります。もしリストなしに、祈らなければならないすべての人々と必要を思い出すことができるのであれば、あなたは神です。私は自分の頭の中と、紙に書いたリストがあります。自分で毎日祈る約70人の名前を覚えました。でもそれには、ノエルと私が書いたリストから毎晩祈る、牧師館での宣教に来た人たちのリストは、含まれていません。リストから読んだことのある私たちの宣教師らのリストは含まれていません。それは週ごとに変わる自分の魂の必要や、家族、教会、そして世界の必要はさておいた、ただの人々です。手元のパソコンに、何らかの祈りのフォルダーやノート、ファイルを置いてください。私は「自由と形式」という点の、後半にしか来ていないことを思い出してください。自由であることの価値を忘れないでください。どちらか一方ではなく、両方共、[必要]です。

形式その3―本 違った国のため、キリストの目的のため、『オペレーション・ワールド』のような本を通して、毎日、あるいは二日に一回、祈ってください。地球規模の心と神の主権のビジョンを得るのは、何と力強い方法でしょう!苦しんでいる、迫害されている教会の一端を垣間見ることのできる、『究極の献身(Extreme Devotion)』のような本を通して、一年を通して毎日祈ってください。私の本、『国民を喜ばせてください(Let the Nations Be Glad )』の、57―62ページを開いて、初代教会がお互いのために祈った36の祈りを祈ってください。清教徒の祈りの本、『幻の谷(The Valley of Vision)』の、偉大な聖徒たちが祈った祈りを祈ってください。私たちは、これらの素晴らしい本の助けなしに、聖書が言うことのすべてと祈らなければならない必要のすべてで、自分たちだけ取り残されていると思うほど愚かです。

形式その4―パターン(様式) 膝まづくときに、まず最初に、そして次に、三番目に何を祈るかという、何らかの誘導をしてくれる祈りのパターンを開発してください。すでに先ほど触れたように、「主の祈り」の嘆願の一つ一つの周りに自分の祈りを築き上げるのも、一つの方法です。私がほとんど毎日使うパターンは、私が罪と感じる事がらと、最も必要だと痛感している事がらという、自分の魂から始まる同心円のパターンです。そこから家族、そして[教会の]牧会スタッフと長老たち、教会のスタッフ、それから宣教師たち、そしてさらに大きなキリストのみからだの一般的必要と、宣教と文化におけるキリストの目的に移行します。ある一定の型やパターン無しには、私は固まってどこへも行けなくなってしまいがちです。

ですから最初の一組は、自由にそして体系的にです。型にはまらずに、必要と感謝が自由にあふれ出るもの、そして型にはまった、聖書やリストや本、パターンのようなものの助けを借りたもの。もしあなたが「祈りに専念して」いるのなら、自分の祈りの生活の中で自由なものと体系的なものを追求するでしょう。

A – 一人で、そして集合体で

祈りに専念するというのは、あなたが定期的に一人で祈り、また他のクリスチャンの集まりの中で祈ることを言います。

イエス・キリストを通して神に謁見することは、私たちにとって何と大切なことでしょうか。個人的に神に信頼することと、イエス様を通しての神との交わり無しには、キリスト教は存在しません。これ無しにはすべてがうわべだけの、価値のない、見せかけのものになります。16人の子どもがいたスザンナ・ウェスレーは、台所でよくエプロンを引き伸ばして自分の頭にかぶせていましたが、子どもたちはこれは台所で静かにすることであると学びました。子どもたちはママとパパには神聖な、邪魔してはいけない、イエス様との時間があると言うことを知る必要があります。場所を探し、時間を決め、子供たちに規則を守らせることを教えてください。

でも一人で祈ることより、他の信者たちとの集まりで祈ることはもっとないがしろにされていると思います。一人で、そして集合体で。新約聖書は共同体としての祈りの集会でいっぱいです。事実、恐らく新約聖書のほとんどの祈りが祈りの集会を考慮にされています。使徒1:14、「この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。」―これがあなたが見つける典型的なものです。使徒12:12で、ペテロが牢屋を出たとき、「マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ行った。そこには大ぜいの人が集まって、祈っていた。」初代教会では祈祷会は普通で、私が思うに規範的なものだったのです。

新約聖書で祈りに専念するというのは、神の民と共に祈ることを含んでいます。皆さんはいかがでしょうか?これは上級のキリスト教ではありません。基本的なキリスト教です。今週私たちは、30分間の祈祷会を12回と、夜通しの8時間の祈祷会を金曜日に計画しています。皆さんが新しい道を開くのを助けることが出来るよう、選択肢があります。残りのこの年、ダウンタウンの教会で週の6日、毎朝30分間の祈祷会と、水曜日の夕方5:45にも祈祷会があります。それから祈りと奉仕のために集まる小グループの集まりもあります。日曜の朝には賛美であるいは別の方法で祈る集まりもあります。もし祈りのために集まることが、自分の祈りに専念することではないのでしたら、2003年を違った年としてください。自由にそして体系的に、一人で、そして集合体で、両方共、[必要]です。

D - 絶望の中で、そして喜びのうちに

祈りに専念するというのは、神のみ前にしばしば必死で、しばしば喜んで、祈りをもって近づくことを言います。祈りとは、自分の最も深い心の痛みと恐れとをもって神と謁見する場所であり、祈りとは、自分の最高の喜びと感謝をもって神に謁見する場所であると、私は単純に言います。み父のみ前に膝まづくときにあなたの肘に置くクッションは、涙で濡れたクッションです。それでいて、神は祈りを聞いてくださる神ですので、あなたは使徒パウロと共に、「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、」(2コリント6:10)と言うのです。そしてその喜びはこの堕落した世の重荷を圧倒しーそうすべきなのですが、ーそのためあなたは喜びで踊りたくなるのです。み父はそのような時にもあなたに会いたいと思われます。絶望の中で、そして喜びのうちに、断食と祝宴のうちに、祈りに専念してください。どちらか一方ではなく、両方とも、[重要]です。

E - 爆発的に、そして延長して

私がここで言っているのは、短くそして長く、です。「短く、また長く」と言ってしまえばいいのですが、そうすると頭文字を合わせた時に何の意味も無くなってしまいます。その上「爆発的」の方がもっと鮮明で、祈りは時としてまさにそのようなものです。もしあなたが祈りに専念しているのであれば、数秒しか続かない賛美と感謝と必要の祈りが定期的に吹き出します。またもしあなたが祈りに専念しているのであれば、主のみ前に長い時間祈り続ける時もあるはずです。私は時々ノエルにちょっと電話をしますが、時には一夕を共に過ごします。もしあなたがキリストを愛し、すべてのことにおいて主により頼み、全てにまさって主を宝とするならば、しばしば爆発的な祈りをもって、またしばしば延長された祈りをもって、主に謁見するはずです。

S - 自然に、そして計画的に

これと、「自由に、また体系的に」、あるいは「爆発的に、そして延長して」の違いは何でしょうか?「自由に、また体系的に」とは、祈るとき何をするのかと言う、つまり、私たちの祈りの内容のことを言います。「爆発的に、そして延長して」とは、祈りの長さのことを言います。「自然に、そして計画的に」とは、私たちが祈る時のことを言います。

もし私たちが祈りに専念しているのであれば、パウロが言うように、止むことなく、一日を通して自然に祈りが沸き起こってきます。それはキリストとの絶え間ない霊の交わりであり、御霊によって歩み、主を自分の人生の絶え間ない個人的臨在として知ることです。あなたが主に語るとき、いかなる計画をも支配することはありません。それは一日のうち、何十回も起こります。これは普通で良いことです。これこそ祈りに専念することです。

でもこれだけだと、あなたはこれを長く保持することはできません。自然に発生する行為のまことの豊かな実は、計画された訓練によって丹念に手入れされた庭で成長します。ですので皆さんにお願いします。祈りの時間を設定してください。2003年に計画してください。あなたはいつ、定期的に主にお会いしますか?どのくらいの時間を取っておきますか?毎日をこのように始めるようおすすめします。一日あるいは半日を二回、あるいは何日間か、どこか離れた所で、一人きりで、あるいは友人と、あるいは自分の伴侶と、本を読むのではなく、4時間あるいは8時間祈る気がありますか?どんな風にですか?単純に、聖書を読んで、それをすべて祈りに変えることによってです。ノエルと私は聖書の短編を持っていき、一章ごとに読んでは止め、その章を私たちの家族や教会に当てはめて祈る、最高に豊かな時を過ごしたことがあります。次の章を読んでは祈って、そう続けるのです。でもそれは偶然には起こりません。計画しなければなりません。それは自然に発生するものではありません。体系的なものです。また栄光あるものです。

これでお分かりでしょう。今日の私たちに対する神のみことばは、「祈りに専念しなさい」です。それに継続的でありなさい。誠実でありなさい。なぜでしょうか?それは神がご命令になるからです。必要が非常に大きく、永遠の事がらがかかっているからです。そして、神が祈りを聞いてくださり、私たちが5年かかって出来る以上のことを、5秒間で成してくださるからです。

ではどのようにして私たちは祈りに専念すればいいのでしょうか?これらです。これ無しには、祈りは消えて行きます(F A D E S)。

F - 自由に、そして体系的に

A - 一人で、そして集合体で

D - 絶望の中で、そして喜びのうちに

E - 爆発的に、そして延長して

S - 自然に、そして計画的に

どうぞ主が、この祈りの週、そして一年を通して、恵みと懇願の霊をあなたにお与えくださいますように。


1 岩波翻訳委員会訳聖書、岩波書店出版、1995年版引用。

2 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。

3 新共同訳聖書、1987年版引用。

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