最悪の時に希望をもって子育てをする 

ああ、悲しいことだ。私は夏のくだものを集める者のよう、ぶどうの取り残しの実を取り入れる者のようになった。もう食べられるふさは一つもなく、私の好きな初なりのいちじくの実もない。2 敬虔な者はこの地から消えうせ、人の間に、正しい者はひとりもいない。みな血を流そうと待ち伏せし、互いに網をかけ合って捕えようとする。3 彼らの手は悪事を働くのに巧みで、役人は物を求め、さばきつかさは報酬に応じてさばき、有力者は自分の欲するままを語り、こうして事を曲げている。4 彼らのうちの善人もいばらのようだ。正しい者もいばらの生け垣のようだ。

あなたの刑罰の日が、あなたを見張る者の日が来る。今、彼らに混乱が起きる。5 友を信用するな。親しい友をも信頼するな。あなたのふところに寝る者にも、あなたの口の戸を守れ。6 息子は父親を侮り、娘は母親に、嫁はしゅうとめに逆らい、それぞれ自分の家の者を敵としている。

7 しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる。8私の敵。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がり、やみの中にすわっていても、主が私の光であるからだ。9 私は主の激しい怒りを身に受けている。私が主に罪を犯したからだ。しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる。10 それで、私に向かい、「あなたの神、主は、どこにいるのか。」と言った私の敵は、これを見て恥に包まれる。私もこの目で敵をながめる。今、敵は道の泥のように踏みにじられる。

11 あなたの石垣を立て直す日、その日、国境が広げられる。12 その日、アッシリヤからエジプトまで、エジプトから大川まで、海から海まで、山から山まで、人々はあなたのところに来る。13 しかし、その地は荒れ果てる。そこに住んでいた者たちのゆえに。これが彼らの行ないの結んだ実である。

14 どうか、あなたの杖で、あなたの民、あなたご自身のものである羊を飼ってください。彼らは林の中、果樹園の中に、ひとり離れて住んでいます。彼らが昔の日のように、バシャンとギルアデで草をはむようにしてください。

15 「あなたがエジプトの国から出た日のように、わたしは奇しいわざを彼に見せよう。」16 異邦の民も見て、自分たちのすべての力を恥じ、手を口に当て、彼らの耳は聞こえなくなりましょう。17 彼らは、蛇のように、地をはうもののように、ちりをなめ、震えながら彼らのとりでから、私たちの神、主のみもとに出て来て、わなないて、あなたを恐れましょう。

18 あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。19 もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。20 昔、私たちの先祖に誓われたように、真実をヤコブに、いつくしみをアブラハムに与えてください。 1

今日は霊的子育てについてのシリーズを完結します。この最後のメッセージに選んだタイトルは、「最悪の時に希望をもって子育てをする」です。子どもを生み育てるのに簡単な時などありません。創世記3章のポイントは、罪がこの世に入ったとたん、出産と子育てがとても難しくなったということです。主はエバに、「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない」と言われました(創世記3:16)。彼女とアダムが二人の男児を育てた後、その子の一人がもう片方を殺すのです。

自由になる唯一の方法

その話のポイントは、今や罪がこの世に、すべての親とすべての子のうちにある、ということです。そしてこれが罪の成せるわざのようなものです。それは人を破壊し、家族を崩壊させます。この世の主な問題は、内在の罪の力です。そしてそれは事実、力です。人間の魂の力であり欠陥、堕落、腐敗です。それは一連の自由意思による選択ではありません。罪は人の自由を破壊する、強力な束縛です。

人が、親が、あるいは子が自由となる唯一の方法は、神の霊によって新しく生まれ変わり、イエス・キリストを救い主として受け入れ、全世界の創造主によって罪赦され、罪の力に対し唯一の対抗勢力としての聖霊を受けることです。それのみがこの世にとって、親と子にとって、唯一の希望です。これはどの時代においても真実です。

子育てに簡単な時はない

ですから子どもを謙遜で、愛があり、正しく、創造豊かで、生産的で、キリストをあがめる大人へと生み育てるのに、簡単な時はありません。簡単な時などないのです。時には他よりさらに大変な時もあります。でもそれが大変であるかないかは、あなたの置かれた個人的環境や社会的環境によります。

今日の私の願いは、最悪の環境のうちにある親御さんを、希望をもってお助けすることです。[最悪の環境というのは]家庭での最悪の環境、また文化での最悪の環境を言います。そして親ではない方々にも、私が言うことすべては適用されます。それは最悪の時に希望を持つ方法は、誰にとっても同じだからです。私たちはそれを違った理由で必要とします。

預言者ミカ

ユダヤ人の預言者ミカは、ユダの王、ヨタム、アハズ、ヘゼキヤが在位した時代に、説教しました(ミカ1:1)。それは大体紀元前750から687年です。彼がその場面に来たその理由のはっきりとした説明が、ミカ3:8に見られます。

しかし、私は、力と、主の霊と、公義と、勇気とに満ち
ヤコブにはそのそむきの罪を、
イスラエルにはその罪を告げよう。

さばきと憐れみの宣告

神は人々に彼らの罪をはっきりさせるため、預言者たちを遣わされました。そしてその罪をもって、預言者たちはさばきを宣告し、憐れみを宣告しました。さばきと憐れみーこれは聖書を通して一貫しています。さばきと憐れみ。神は聖く、義であられ、罪深い人々にさばきをくだされます。そして神は憐れみ深く忍耐深く、また情け深く、罪深い人々をご自身のさばきから救われます。ミカはこれをミカ4:10で明確にします。

シオンの娘よ。
子を産む女のように、身もだえし、もがき回れ。
今、あなたは町を出て、野に宿り、バビロンまで行く。
そこであなたは救われる。
そこで主はあなたを敵の手から贖われる。

主は彼らをさばきのうちにバビロンに送られます。そして主は憐れみのうちに、彼らを彼らの地に連れ戻されます。

処罰はやって来る

7章で、ミカは最悪の時の子育て、つまり、家庭において最悪の時、文化において最悪の時について言及します。1節、「ああ、悲しいことだ。私は夏のくだものを集める者のよう、ぶどうの取り残しの実を取り入れる者のようになった。もう食べられるふさは一つもなく、私の好きな初なりのいちじくの実もない。」彼は自分がいかに食べ物に貧窮しているかを語っているかも知れません。でも私は、彼が比喩的に、敬虔な友や同僚が貧窮している状態を語っているのではないかと思います。なぜなら彼は2―3節で、「敬虔な者はこの地から消えうせ、人の間に、正しい者はひとりもいない。みな血を流そうと待ち伏せし、互いに網をかけ合って捕えようとする。彼らの手は悪事を働くのに巧みで、役人は物を求め、さばきつかさは報酬に応じてさばき、有力者は自分の欲するままを語り、こうして事を曲げている」と言うからです。有力者は腐敗しています。彼らはできる限りの悪を企て(「練り上げ」)、上手にそれをやってのけるのです。

4節、「彼らのうちの善人もいばらのようだ。正しい者もいばらの生け垣のようだ。」もしミカが彼らに近づこうとすると、とげが刺さるのです。「あなたの刑罰の日が、あなたを見張る者の日が来る。今、彼らに混乱が起きる。」それゆえ敵がやって来ないかどうかを見るために任命された見張り役の日は近づいています。処罰がやって来るのです。

妻と子どもたちでさえも

さて、ミカはそれを文化から近所とそして家族に持って来ます。5節、「友を信用するな。親しい友をも信頼するな。あなたのふところに寝る者にも、あなたの口の戸を守れ。」言い換えると、罪と腐敗と偽りは、気をつけないといけないほどまん延しており、自分の妻、つまり「あなたのふところに寝る者」、も自分を裏切りかねないほどである、と言うのです。

それでは子どもたちです。6節、「息子は父親を侮り、娘は母親に、嫁はしゅうとめに逆らい、それぞれ自分の家の者を敵としている。」5人の違った人たちがこの絵の中にいます。父親と母親。息子と娘。そして嫁です。ということは、息子は結婚しています。ミカはすでに、夫と妻の間の事がらも定かではないと言っています(「あなたのふところに寝る者にも、あなたの口の戸を守れ」)。そしてここでは彼は息子が父親に対抗して立ち上がると言います。娘は母親に対抗して立ち上がり、嫁は娘の肩を持ち、しゅうとめに逆らうと。ミカは彼らを人の敵と呼びます。6節の終わり、「それぞれ自分の家の者を敵としている。」彼は特に息子たちに関して言及しているのです。娘たちは父親の妻に恨みを集中させているようです。

これは痛ましい光景です。中にはまさにこのような状況に置かれている人もいるでしょう。これは最悪の時です。文化は腐敗しており、結婚生活と家族は危険にさらされています。それがミカ7章の描くものです。皆さんの中には、それが今日描く自分の生活です。他の者にとっては、明日それがやって来ます。

イエス様がこれをもたらされた?

この状況の中でミカの希望に注意を向ける前に、イエス様がこの6節の家族の肖像で何を成されるかを皆さんに見ていただきたいと思います。マタイ10:34―36を開いてください。イエスさまはご自身の来臨の結果を説明されます。「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。[それから主はミカ7:6節を引用されます。]なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。」

これが[7節で登場する]同じ5人、あなたの家庭での敵に言及したものと同じものですが、一つだけ際立った違いがあります。イエス様がそれをもたらされたと言われるのです。35節、「わたしは人をその父に、・・・逆らわせるために来たからです。」主はもちろんのこと、家族を崩壊させることを好んでおられるわけではありません。主の弟子訓練の究極の召しが家族関係を破壊すると言っておられるのです。一人が信じ、他の一人は信じません。父親がイエス様に従い、息子は従いません。息子がイエス様に従い、父親は従いません。娘がイエス様に従い、母親は従わないのです。

なぜイエス様はここに登場されるのでしょうか?

ここでの図のなかにイエス様を持ち込んだ理由は、まず第一に、ミカの時代の家族の崩壊は、必ずしも家族の腐敗が原因ではない、ということを示すためです。それは家族の中の義が原因かも知れません。誰かが神について、主の契約、そして主の御言葉について真剣になるまで、家庭内ですべてのことがスムーズに運んでいたかも知れません。そして責め合いが始まるのです。「信心深くなって、自分が他の人より良いと思っているんだろう!すべてうまく行っていたのに、今じゃ俺たち残りの者が正さなきゃいけないと思ってるんだろう。」

イエス様がこのミカの聖句を引用さる別の理由は、それはミカの時代もユニークなことは一切無い、ということを示すためです。それは紀元前8世紀にその通りでした。それは紀元1世紀にもその通りでした。そしてこの21世紀でもそれは同様です。それはたとえあなたにとってそうでなくとも、誰かにとっては最悪の時なのです。

それではミカは、最悪の時の子育てで希望を持つことについて、何を言わんとしているのでしょうか?

ミカが言おうとしていることーへりくだって大胆に

彼は恐らく父親の代表として、またイスラエル人の代表として自分を描き、そしてへりくだって大胆な姿勢を取ります。それが私が最悪の時の子育てについてあなたにお伝えしたいことの本質です。へりくだって大胆な姿勢で子育てをしてください。「へりくだって」と言うのと、「大胆に」と言うのを皆さんが理解できるよう、質問させてください。彼は何についてへりくだっているのでしょうか?そして彼がそんなに大胆でいられるその根拠は何でしょう?その二つの質問の答えを得るため、7―9節を見てみましょう。彼は何についてヘりくだっているのでしょうか?そして彼がそんなに大胆でいられるその根拠は一体何でしょうか?

己の義ではない

6節で「それぞれ自分の家の者を敵としている」と言ったそのすぐ後で、彼は7節で、「しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる」と言います。ですから私たちは最悪の時に、主を仰ぎ見ます。他のところを見よう[頼ろう]としたことがあるかも知れません。何をやってもダメです。すべてが崩れます。私たちは自分で家族[関係]がうまく行かせることができるはずだと思っていました。この子達は自分の力で、自分が選ぶどんなかたちにでも形作ることができるはずだと。結婚に関するいい本さえあれば、相互の深い信頼と尊敬と称賛と愛情を手に入れることができるはずだと。そして今です。今では私たちは主を仰ぎ見ます。

でも気をつけてください。ミカは己の善を主に見ているでしょうか?そのようなものは可能です。彼は、「私は正しいことのすべて、父親がすべきすべてのことをした。もしこの家族がうまくいっていないとしたら、心は痛むが、私が問題なのではない。彼らだ。」それがこの人の姿勢でしょうか?いいえ、違います。そしてそれはあなたの姿勢でもないことを願います。

罪を犯されているけれども、自分の罪をも自覚する

8、9節で彼が言うことに耳を傾けてください。大胆で、へりくだらされていることに耳を傾けてください。なぜ彼はへりくだらされているのでしょうか?

「私の敵。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がり、やみの中にすわっていても、主が私の光であるからだ。私は主の激しい怒りを身に受けている。私が主に罪を犯したからだ。しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる。」

9節の冒頭を見逃さないでください。「私は主の激しい怒りを身に受けている。私が主に罪を犯したからだ。」配偶者や親たちがこれを見るのはとても重要です。それは、彼が、罪を実際に犯されている文脈の中でそれを言っているからです。8節で、彼は自分の敵(恐らく息子や妻でしょう)に、「私の敵。私のことで喜ぶな。」と言います。いい気味だと思うなと。そして9節の半ばで、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださると言います。「主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる。」

言い換えれば、彼は自分が罪を犯されていることを知っているのです。彼らの非難の中には間違ったものもあると言うことを知っています。彼は神が彼の敵ではなく、味方であられると言うことを知っています。神が彼を暗闇から光に導いて下さいます。彼に義を見させて下さいます。彼はこの確信と断言で大胆なのです。驚くほど大胆です。それにも関わらず、主のみ怒りと自分自身の暗闇を説明するために私たちの注意を引くのは、自分自身の罪です。「私は主の激しい怒りを身に受けている。私が主に罪を犯したからだ。」

なぜそんなにへりくだらされているのか?

なぜ彼はそんなにへりくだらされているのか、という質問に対する私の答えは、以下の通りです。それは彼が主に家庭内で罪を犯されているからではなく、彼自身が罪を犯すことにあります。最悪の時に希望を持って子育てをする姿勢は、へりくだらされた大胆さの姿勢です。へりくだらされているのは、まず何よりも、自分自身の罪のためで、そしてそうすることで初めて、罪を犯されていることのために、へりくだらされるのです。これが私たちが直面する大きな格闘なのです。神の恵みにより、自分の家族と自分自身をそのように見ることができるようなへりくだった姿勢を、私たちは探し出すことが出来るでしょうか?

なぜそんなに大胆なのか?

二つ目の質問は、もし罪を犯して来たのなら、なぜ彼はそんなに大胆でいられるのか?と言うものです。自分の罪が頭の中でそんなに顕著であるのに、なぜ彼はそのように語ることができるのでしょうか?このような大胆さはどこから来ているのでしょう?「私の敵。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がり、やみの中にすわっていても、主が私の光であるからだ。・・・主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる。」

答えは7章の最後にあります。そしてその答えがこのミカ書の最後として出てくるあたり、またそれがそのように強調されていること自体、それがこの書、事実、聖書全体で、最も重要であることを示しています。18―19節、

「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。」

ミカが打ちひしがれた中でそんなに大胆でいられるのは、彼が神を知っているからです。彼は神の一体何が素晴らしくユニークであるのかを知っています。「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか?」それは、あなたのような神は他にはない、と言っています。「あなたの道は私たちの道よりはるかに高いです。あなたの道はこの世のいかなる神々よりも高いです。あなたがユニークなのは何でしょう?それはあなたがご自身の民の咎を赦され、そむきの罪を見逃されることです。」それが聖書の神固有のユニークさです。そしてこの神以外に他に神はありません。

神の赦しで深く進む

それではあなたが、最悪の時にどのように希望を持って子育てをするのでしょうか?自分の家族が3対2、また2対3で分裂しているかも知れない時に、どのように希望を持って子育てをするのでしょうか?あなたは主を仰ぎ見るのです。主に叫び求めるのです(7節)。そして二つの深い確信を持って、主に叫び求めるのです。その一つは、あなたが罪人であり、一切のものを神から受けるに値しない者ということです。私たちは完璧な親ではありません。罪を犯してきました。私たちはそんなに愚かでも、うぶでもありません。自分が罪を犯されて来たことを知っています。でも私たちの肉のすべてがそれだけを考えようとします。聖霊だけが、私たちに自分自身の罪を見させることがおできになります。聖霊だけが、私たちに自分自身のあやまちの重さを感じさせることがおできになります。それが深い確信の一つです。

もう一つは私たちの神のように、咎を赦され、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみをお喜びになるお方は、他にはいない、と言うものです。私たちは自分の伴侶たちに罪を犯して来、子どもたちに罪を犯して来、そしてこれらすべてのことにおいて、神に対し罪を犯して来たということを、このことを確信するのと同じように、確信しています。その両者とも非常に重要である、両者がどのように一緒になって作用するのか、一方がもう一方を可能な限り深めている、というのが見えますか? もしあなたが自分の罪とあやまちの重さを感じることがなければ、神の赦しに深く進むことはありません。でもそれは逆でも同じです。もしあなたが神の赦しを知らなければ、自分自身の罪を深く掘り下げることはありませんーそしてこれは家庭内でとても重要です。

この二つの深い確信はへりくだらされた大胆さという姿勢を生み出します。そしてそれが最悪の時に希望を持って子育てをする姿勢です。罪を犯される渦の中で自分自身の罪にへりくだり、そして大胆に、それは「あなたのように赦しの神が他にいるでしょうか!」だからです。

へりくだらされた大胆さ—イエス様のうちにあって増す

そしてクリスチャンにとって、この半々の姿勢は、イエス・キリストと、主が私たちのために十字架上で何をして下さったかを知ることで根ざし、また増します。ミカにとって、イエス様は5節ではただの希望でした。「ベツレヘム・エフラテよ。・・・あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。・・・彼は立って、主の力と、彼の神、主の御名の威光によって群れを飼い、・・・」(ミカ5:2、4)。この良い羊飼いはご自身の羊のためにいのちをお捨てになりました(ヨハネ10:11)。そして主がご自身をお捨てになったとき、私たちはそれまで以上にはっきりと、私たちの罪の深さ(それは主の苦しみの度合いを要求しました)と、神がその罪を赦すことで解決されたその偉大さを知りました。それゆえ、へりくだりと大胆さは増すのです。

ですからもしあなたが最悪の時に子育てをしておられるのなら、あるいは最悪の時の子育ての準備をしたいと思っておられるなら、または、単純に最悪の時に希望が欲しいと思っておられるのなら、ミカを見て、イエス様を見て、そしてこの姿勢、自分自身の罪のゆえのへりくだり、またキリストのゆえの大胆さを取ってください。それから聖霊の力によって、イエス様のために、できる限り最高の、不完全な親になろうと心に決めてください。


1 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。

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