神のみ名によって力づける 

ダビデは、サウルが自分のいのちをねらって出て来たので恐れていた。そのときダビデはジフの荒野のホレシュにいた。16 サウルの子ヨナタンは、ホレシュのダビデのところに来て、神の御名によってダビデを力づけた。17 彼はダビデに言った。「恐れることはありません。私の父サウルの手があなたの身に及ぶことはないからです。あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者となるでしょう。私の父サウルもまた、そうなることを確かに知っているのです。」18 こうして、ふたりは主の前で契約を結んだ。ダビデはホレシュにとどまり、ヨナタンは自分の家へ帰った。 1

今日のメッセージは、先週日曜から始まったエペソ書のシリーズを中断してのメッセージです。なぜ中断したのかと言うと、ベツレヘム教会の会員の皆さんすべてに、信仰の戦いを戦い抜くよう互いに助け合うため、何らかの小グループに参加するようおすすめしなければいけないと、私たちが感じている深い確信のゆえです。ですから今日注目するのは、神のみ名によって互いを力づけ合うことです。

永久保全は共同体のプロジェクト

私たちは、永久保全は共同体のプロジェクトであると信じます。聖者の堅忍は共同責任であると、私たちは信じます。「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません」(ヨハネ10:27―28)と言われた慈愛にあふれる主は、「最後まで耐え忍ぶものは救われます」(マタイ24:13)とも言われました。

言い換えれば、神から生まれた者は、イエス様のみ手の中で永遠に安全なのです。そして、神から生まれた者はまた、最終的に救われるため、最後まで耐え忍ばなくてはいけないのです。そこで質問です。神は、ご自身の民が安全で誰一人失われることがないというみ約束を確実に成就するため、どのようにして彼らが信仰において最後まで耐え忍ぶようお定めになったのでしょうか?

今朝はその質問に対する答えの最も重要な部分、つまり、神は私たちが、来る日も来る日も、最後まで信仰の戦いをうまく戦い抜くよう互いに助け合うため、他の信者たちと結びつき合うようお定めになっているということに、焦点を当てます。この答えに関する聖書的根拠は、ヘブル3:12―14にあります。

「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。『きょう』と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。」

神は、私たちに私たち自身の確信を最後まで貫き通させるよう、ある方法を制定されました。それは、神の約束を堅持し、罪の偽りを逃れるよう互いに助け合うため、クリスチャンの関係を築き上げることです。堅く立って神の武具を身に付けるため、日毎に互いに励まし合ってください。

クリスチャンの集まりの一員になる

子供たち、中学生、高校生、大学生、独身、既婚者、未亡人の皆さん!皆さんは信仰の戦いを戦い抜くため互いに助け合い、罪の巧妙な侵害からお互いを守り合うことを固く誓う、クリスチャンの友達の集まりの一員ですか?

組織立った小グループに所属しない限り、あなたは救われないと言っているのではありません。でも、もしあなたのそのような信仰における仲間がいないのであれば、信仰における自分の保全と堅忍のために制定された神の方法を、あなたはないがしろにしていると、私は敢えて言います。そして恵みの方法をないがしろにすると、自分の魂を危険にさらすことになります。

今朝の私の目標はとても単純です。日毎に信仰の戦いを戦い抜くよう励まし、励まされる、クリスチャンの何らかの小さな集まりに属そうという気持ちを、皆さんのうちに起こさせることです。このメッセージの終わりに、皆さんが祈りつつ考慮しているところで、ピーター・ネルソン氏が、空きのある小グループのネットワークを簡単にご紹介します。

ヨナタンのダビデとの対面から学ぶ4つの教訓

聖書箇所は1サムエル23:15―18です。これは、いつまでも続く信仰の戦いにおいて何が起こるべきであるかを、単純にそして深く説明しています。

「ダビデは、サウルが自分のいのちをねらって出て来たので恐れていた。そのときダビデはジフの荒野のホレシュにいた。サウルの子ヨナタンは、ホレシュのダビデのところに来て、神の御名によってダビデを力づけた。彼はダビデに言った。『恐れることはありません。私の父サウルの手があなたの身に及ぶことはないからです。あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者となるでしょう。私の父サウルもまた、そうなることを確かに知っているのです。』こうして、ふたりは主の前で契約を結んだ。ダビデはホレシュにとどまり、ヨナタンは自分の家へ帰った。」

このヨナタンとダビデの対面は、信仰の戦いを戦い抜くため互いを助け合うことに関して、少なくとも4つの教訓を説いています。

1. すべての人はクリスチャンの仲間を必要としている

最も深い聖人も最も強い指導者も、神のみ名によって力づけられるために、クリスチャンの仲間を必要とします。ダビデは深く、強かったのですが、ダビデはヨナタンを必要としました。

クリスチャンの友情というのは、新しい人を勧誘するためだけのものではありません。それはすべての信者のためのものです。私たちには他のクリスチャンの自分に対する奉仕が要らなくなるということは、決してありません。もしあなたが、信仰の戦いで人からの励ましを必要とする段階をすでに卒業したと思っておられるなら、あなたの心は恐らく罪の偽りの餌食にすでになっているでしょう。

ダビデは神のみこころにかなう人でした。偉大な戦士でした。彼は多分、その強さと知能と神学的理解の深さにおいて、ヨナタンにまさっていました。しかし16節では、ヨナタンが来て、神のみ名によって彼を力づけたと言っています。

人は神のみ名によって力づけられる必要がないほど強いとは、決して思わないでください。また、ある人はあなたよりはるかに強いので、あなたが神の器になってその人を力づける必要などないと、決して思わないでください。

チャールズ・スポルジョンは、クリスチャン指導者たちの多くを代表して、以下のように著しています。

「何年か前、私は恐ろしい霊的うつ病の対象となってしまった。様々な不況に襲われ、私自身体調不良で、心が沈んでいた。心の底から主に泣き叫んだ。メントンに休養のため出かける間際に体調をひどく崩し、自分の霊が打ちのめされたため、魂はもっとひどく苦しんだ。このプレッシャーにも関わらず、『主よ、主よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか?』という御言葉から説教した。自分でも予想できなかったほど、私自身それまで以上にその御言葉から説教をするのにふさわしい者であった。事実、兄弟たちの中には、その心が張り裂けるようなみことばに深くのめり込むことができたのではないかと思う。私は神から見捨てられる魂の恐ろしさを、十分に感じた。それは望むような体験ではない。魂の月食をもう一度通されることなど、そんなことを考えただけで震えてしまう。二度とあのようなかたちで苦しまないように祈る。(自伝、第二巻、415ページ)

最も偉大な聖人、最も勇敢な戦士は、神のみ名によって力づけられる必要がないということはない、ということを強調するため、私はこのことを話しています。実際、彼らに対する悪魔の攻撃が、もっと彼らの必要を大きくします。ですから最も深い聖人や最も強い指導者こそ、神のみ名によって力づけられるため仲間を必要とするのです。

2. 意識的な努力

第二の教訓は、神のみ名によって人を力づけるのには、意識的な努力を要するということです。

それは意図的です。去り際にそれをするのではありません。あなたは立ち上がって、ホレシュまで下って行くのです。16節、「サウルの子ヨナタンは、ホレシュのダビデのところに来て、神の御名によってダビデを力づけた。」

もし、私たちの教会で私たちのすべてが朝起きたとき、神のみ名によって誰かを強めようと計画を立てるとしたら、それはどんなに大きな影響を及ぼすことでしょう!ヨナタンはホレシュでダビデと偶然出会ったのではありません(時にはそれが起こることもありますが!)。彼はダビデを力づけるため、出かけることを計画したのです。クリスチャンが成熟しているサインは、神のみ名によって誰かを力づけたいと望み、機会を作るよう、自分の生活の中で築いていくことにあります。あなたは今日、神のみ名によって、誰を力づけるでしょうか?今週それをしますか?このように、信仰の戦いを戦い抜くため助け合うことに、自分自身を(意図的に!)ささげている仲間の集まりが、あなたにはありますか?

『サミュエル・ピアースの思い出(“Memoirs of Samuel Pearce”)』という、1792年に最初のバプテスト宣教会を設立した牧師たちの小さな集まりの一人を描いた本を、私は読んでいます。その中にはジョン・ライランドや、ジョン・サットクリフ、アンドリュー・フラー、サミュエル・ピアース、そしてウィリアム・キャレーがいます。最近、他の誰よりも目立つことを一つ発見しました。それは、この男たちは互いに愛し合い、一緒に集まり、そして神のみ名によって互いを力づけることに大いに情熱を注いだのです。

サミュエル・ピアースはキャレーがインドへと旅立った後、彼からの最初の手紙が届くのを一年以上待ちました。そしてそれが届いたとき、彼はキャレーにこのように返事を書いたのです。

「あなたがくれた報告は、私たちを新しい活力で刺激し、主にあって非常に強く力づけてくれました。私たちは読んで涙を流し、主をほめたたえ、祈りました。ああ、私たちの愛する主イエス・キリストのゆえにこのように友情でつながっていることをこんなにも喜ぶのは、クリスチャン以外に他に誰がいるでしょうか?」(58ページ)

「私たちの愛する主イエス・キリストのゆえの友情」とは、素晴らしいフレーズではありませんか?

今朝私が懇願しているのは、皆さんのすべてが、イエス・キリストのゆえの友情を築くこと、つまり、希望と力をイエス・キリストに見出すよう互いに継続して励まし合うよう、双方の合意の下にある信仰の仲間の集まりを持つことです。

3. 神のみ名によってお互いを力づける

それが第三番目の教訓です。私たちが互いに力づけ合うのは、私たち自身の力ではなく、神のみ力によってです。16節ではヨナタンははるか遠くから、ダビデの自身を高めるためにホレシュまで来たとは、言ってはいません。彼はそうしませんでした。彼は立ち上がって、ホレシュにいるダビデのところへ来て、神のみ名によって彼を力づけたと言います。

これがクリスチャンの仲間と、他のすべての支援グループや心理療法グループや自立支援グループとの、違いです。クリスチャン仲間において重要なのは、人間ではなくキリストに助けと力を求めるよう、お互いを励まし合うことです。

ある種の矛盾がここにあります。一方で私はあなたが必要であると言います。神は、私を最後まで耐え忍ばせるため、恵みの方法としてあなたをお遣わしになりました。しかしもう一方で、あなたが私を本当に助けることができる方法はたった一つ、私があなたでなく、神に頼るようにすることを言い、そしてする方法です。

ここで、私たちの最も共通するテーマがまた出てきました。人間の連帯感であれ、仲間意識であれ、友情関係であれ、私たちが成すすべてのことにある、徹底的神中心さです。それはイエス様のゆえの友情関係でなくてはなりません。すべての現存するクリスチャングループは、人によってではなく、神によって互いを力づけるために存在するべきです。それが御言葉からの第三番目の教訓です。「ヨナタンは、ホレシュのダビデのところに来て、神のみ名によってダビデを力づけた。」

4. 神の約束を互いに思い出させる

最後に、どのようにして彼はこれをしたのでしょうか?私たちはどのようにしてそれをするのでしょうか?ヨナタンは(17節で)言います。「恐れることはありません。私の父サウルの手があなたの身に及ぶことはないからです。あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者となるでしょう。私の父サウルもまた、そうなることを確かに知っているのです。」

ヨナタンはどのようにしてダビデがイスラエルの王になることを知っていたのでしょうか?彼らは深い親友でしたので、預言者サムエルが少年のダビデを、イスラエルの王として油を注いだ16章の出来事を、ダビデがヨナタンに言わなかったはずがありません。ですのでヨナタンが神のみ名によってダビデを力づけたとき、彼はダビデに神がお約束になったこと(1サムエル16:12)を思い出させたのです。神がダビデの背後におられたので、サウルはダビデの地位を奪い取ることができませんでした。

そしてそれは私たちにとっても同じです。私たちは特にお互いの必要にふさわしいよう神がお約束になっていることを互いに思い出させることによって、神のみ名によってお互いを力づけます。

もしあなたが、故郷から15,000マイル(約24,000キロ)離れたところで、何十万という未信者に囲まれて、一人きりで信仰の戦いを戦っているウィリアム・キャレーであるとしたら、あなたの友人たちから何を聞く必要があるでしょうか?あなたは、キャレーを神のみ名によって力づける方法を知っていた、尊い友人であるサミュエル・ピアースの言葉のようなものを、聞く必要があります。彼の1794年10月4日に書いた手紙が、いかに神の約束で満たされていたかに聞き入ってください。

「兄弟よ、あなたのそばにいて、試練の攻撃のすべて、臆病者しか敗北しないような何でもない攻撃に参加することができたらと思います。そうです、私たちの救いの君は私たちの頭上で行進しておられます。時に主は、私たちの霊的腕と天からの武具で私たちの腕前を試されるため、ご自身のご臨在から退かれることがあるかも知れません(でもご自身のみ力を退けられることはありません)。ああ、生きた信仰が、キリストの兵士に何をすることが出来るでしょうか!それは救い主を天から遣わします。それは、主を血に染まった衣で美しく着飾ります。それは主を戦いの前線に配置し、私たちの口で新しい歌、「これらは小羊に戦を挑んだが、小羊は彼らに打ち勝たれる」を歌わせます。そうです。主は打ち勝たれます。勝利は我らが戦場に入場する前に、確実です。王冠は私たちの額を飾るためすでに用意されており、その朽ちることのない栄光の冠さえ、私たちはそれをどうするかすでに決めています。私たちはそれを勝利者の足元におろし、そして天のすべてのものが声を一つにして、「小羊は、賛美を受けるにふさわしいお方」と唱う間、私たちは「主よ、栄光をわれらにではなく、われらにではなく、み名にのみ帰してください。」と言います。(『思い出』、66ページ)

私たちのすべてがそのような言葉をもって仲間を力づけることのできる賜物を持っているわけではありません。しかしもし自分の頭を神のことばにどっぷり浸し、詩篇1篇で言われているように、昼夜それを深く思うなら、あなたは生けるいのちの水となり、神にあって多くの者たちを力づけるようになるでしょう。今朝のあなたに対する神の招きはこれですー来て、神のみ名によって、お互いを力づけ合いましょう!アーメン


1 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用

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