預言の賜物の権威と性質  

そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言っ8/29た。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。15 今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。16 これは、預言者ヨエルによって語られた事です。17 『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。18 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。19 また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。21 しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』1

先週1コリント13:8―12で、実際の生きた顔が、鏡にぼんやり映ったイメージに取って代わるのと同じように、預言の賜物は、イエス様が再臨されるときにすたれる、と教えられているのを、お見せしようとしました。またそれゆえ預言の賜物は、今日の教会でまだ有効であるということを、論じました。今日は「預言の賜物は一体どのようなもので、どのようにして行使されるべきであるか」と言う疑問を取り上げます。

みことばの完了状態と十分性

まず、みことばである聖書の66巻の完了状態と、十分性を確認することから始めさせてください。私が言うところの今日の預言のいかなるものも、みことばが私たちの人生に持っているような権威を持ってはいません。今日語られるどのような預言も、みことばに付け足されることはありません。それらはみことばによって吟味されるべきものです。みことばは堅く閉じられ、最終的です。土台であって、構築中のものではありません。

これを見ることができる最も良い方法は、初代教会で使徒達の教えがいかにして最終的権限であったか、また他の預言が最終的権限を持っていなかったかを見ることです。例えば、1コリント14:37―38でパウロは、「自分を預言者、あるいは、御霊の人と思う者は、私があなたがたに書くことが主の命令であることを認めなさい。もしそれを認めないなら、その人は認められません」と言います。その意味は明らかです。使徒の教えが最終的権限を持っているのです。教会で預言と呼ばれるものには、昔も今も、この権威がありません。

2テサロニケ2:1―3にもこれと同じものを見ることができます。パウロはここで、もし誰かが「霊」によって、主の再臨についての情報をあなたに提供するよと言ったとしても、それが自分の教えと異なるものであるならば、信じてはいけない、と言います。「さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。」言い換えると、預言は使徒のことばによって吟味されなければならないのです。

新約聖書は今日、使徒達が立ったところに立つ、と言うのがここのポイントです。彼らの権威は今日、彼らの書簡と、ルカやマルコやヤコブ(イエス様の兄弟)のような、彼らの近しい仲間の書簡によって、行使されます。ですからパウロが当時使徒の教えを最終的権限としたのと同じように、私たちは今日使徒の教えを最終的権限とするのです。それは新約聖書が私たちの権威であることを意味します。そして新約聖書が旧約聖書を神の霊感を受けたことばとして承認するので、私たちは聖書全体を、私たちが何を信じ、どのように生きるべきかに関するすべての教えとすべての預言の規範と、ものさしであると受け止めます。

ペンテコステで何が起こったのか

では今度は新約聖書の預言の賜物について私たちが学ぶことができるものを見るため、使徒2:16に移ります。状況ーそれはペンテコステ(五旬節)の日で、イエス様がよみがえられてから50日経ったときでした。120人の男女がエルサレムで、「いと高き所から力を着せられる」(ルカ24:49)のを待っていました。使徒2:2によると、聖霊が激しい風が吹いて来るような響きと共にやって来られます。4節で、「みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした」とルカは言います。11節では彼らが何を話していたのか、具体的に説明されています。何人かの外国人が彼らが語るのを聞いて、「私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは」と言います。彼らのことばの内容によく注意してください。それが預言の賜物の性質を理解するのに重要になります。

ヨエルの預言の成就

16節でペテロは何が起こっているのかを説明します。これが預言者ヨエルによって語られたことだと彼は言います。これはヨエル2:28の成就の始まりです。ペテロはヨエル書17―18節を引用して、「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する」と言います。

ヨエルは、終わりの日に御霊の世界的(「すべての人」)注ぎがあり、その注ぎの印は、老若男女、高低層階級に至る預言の充満であると言います。それは「終わりの日」に起こるとヨエルは言うのです。それはいつでしょうか?ペテロは今起こっているそれがその注ぎであると言います。「これは、預言者ヨエルによって語られた事です。」しかしその当時終わりの日が始まっていたのであるなら、私たちはどこに当てはまるのでしょう?

終わりの日

私たちは終わりの日におさまります。イエス様が来られたので、私たちは終わりの日に生きています。ヘブル1:2は、「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。・・・」と言います。御子が来られたので、私たちは「終わりの時」に生きているのです。

ですからこれは、先週見たように、預言は私たちが今日予期すべきものであるということを裏付けます。老若男女、高低層階級が終わりの日(私たちの時代)に預言し、これは世界的現象になります。なぜなら17節が言うように、神はユダヤ人だけでなく、『すべての人』にご自身の御霊を注がれるからです。ペテロの説教は使徒2:39で終了します。「この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」それは神によって召された私たち異邦人も含まれます。悔い改めて信じるすべての者が預言するわけではありません(1コリント12:29)。でも悔い改めて信じるすべての者が聖霊を受けます(38節)。そしてこの終わりの日に、御霊が注がれたというその現れの一つは、驚くほど広範囲に渡る預言の賜物です(17―18節)。「あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」

御霊によって引き起こされた、それでいて本来備わっていない、神の権威

さて、この質問を自問してみて下さい。ヨエルとペテロとルカは、すべての男女、つまり若いものも年寄りも、しもべもはしためも、預言者であったモーセやイザヤやエレミヤ、つまり、逐語霊感と神の権威そのものを持って語り、誤りの全くないみことばを書くことのできた預言者たちと同じように、預言者たちになると思っているでしょうか?使徒2:17の預言は、そのような預言なのでしょうか?あるいはそこには違いがあるでしょうか?

そこには違いがあると私は信じます。今日の預言の賜物は、旧約聖書の預言者の権威や、イエス様や使徒達の権威を持っているとは思いません。あるいは、より肯定的に言うなら、これらの種の預言は御霊によって促され保たれるものですが、それでいて本来備わっている神の権威がありません。

今日このような種類の預言を管理するのがとても大変な理由の一つは、それは私たちのほとんどにとって、本来備わっている神の権威がない、御霊に促された発言、というもののカテゴリーが、頭の中にないからです。それは矛盾しているように聞こえます。私たちは聖霊によって促され維持され、それでいて間違いのある、ある種のスピーチにつまづきます。でも私は今朝と今晩、これが新約聖書と今日の預言の賜物であると言うことを、お見せしようと思います。それは本来備わっている神の権威をもたない、誤りが含まれる、御霊によって促され、御霊によって保たれることばです。

さて、もし預言の賜物がそれほど重要でなく、[教会を]建て上げるようなものではないように思えるのでしたら、教える賜物のたとえを考えて見てください。

教える賜物のたとえ

教えるという御霊の賜物が行使されているとき、その教えは御霊によって促され保たれ、誤りの全くない神の啓示、すなわち聖書に根付いている、と言わないでしょうか?教える賜物は、御霊によって促され、御霊によって保たれた、教会を高めるために聖書の真理を説明する行為です。私たちのすべてがそれは教会のいのちにとても欠かせないものであると言います。でも教師のスピーチが、その教師が教える賜物を行使している時に、それには誤りがあると言う人がいるでしょうか?いいえ、いません。それは神の権威を持っていると言うでしょうか?二次的な意味でのみ、そう言います。その教えそのものが、本来備わっている神の権威を持っていると言うのではなく、その教えのもとである聖書に神の権威がある、という意味で言います。

なぜ御霊に促され、御霊に支えられ、誤りの全くない啓示(聖書)に根付いた賜物は、それにも関わらず、誤りがあり、不完全さと混ざっており、二次的な模倣した権威なのでしょう?その答えは、教師の聖書の真理の認知が当てにならないからです。教師の聖書の真理の説明があてにならないからです。誤りの全くない聖書と教会のつながりが、誤りの全くないつながりだという保証はどこにもありません。教える賜物が誤りのない教えだという保証はありません。

それなのに、教える賜物が誤りがあるものであったとしても、それが本来備わっている神の権威を欠いていたとしても、それが教会にとっては大変価値あるものであることを私たちは知っています。私たちはみな、優れた教師たちによって高められ、建て上げられます。神がそのうちにおられるのです。神がそれを用いられるのです。それは御霊の賜物です。

さて、これを預言の賜物と比較してみてください。それは御霊によって促され、御霊によって保たれ、神からの啓示に基づいたものです。神は預言者の頭に何かをあらわされ(普通の知覚を超えた方法で)、そして神は間違いを犯されることはないので、主の啓示はまことであることを私たちは知っています。その啓示には誤りが一切ありません。しかし預言の賜物は、その啓示の誤りのない伝達であることを保証しません。預言者がその啓示を不完全に感知するかも知れませんし、不完全に理解するかも知れませんし、また不完全に伝達するかも知れません。そのためパウロは、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていると言うのです(1コリント13:12)。誤りのある預言に終わってしまう預言の賜物は、丁度、誤りのある教えに終わってしまう教えの賜物のようなものです。ですから私は、「もし教えが教会を高めるために良いものであることができるならば、パウロが言うように(1コリント14:3、12、26)、たとえその両者[教えるのと預言の賜物]に誤りがあり、人間の不完全さが混ざっており、吟味される必要のあるものであっても、預言も良いものであることができるのではないでしょうか?」と質問します。

私たちの頭の中に新しいカテゴリーを作る

私が言っていることのポイントは以下の通りです。私たちは、御霊に促され、御霊に保たれ、啓示に基づいており、それでいて吟味されふるいにかけられる必要のあるようなスピーチという、カテゴリーを作る必要があります。一方で、誤りのない、逐語霊感で語るまことの預言者(聖書の預言書の著者とイエス様と使徒達)と、もう一方で、申命記13:3、18:20(エレミヤ23:16も参照)で咎められている偽預言者のほかに、別のカテゴリーの預言者が必要です。預言について聖書で私たちが見る教えは、この二つのカテゴリーで単純に語り尽くされてはいません。つまり、御霊に促され、御霊に保たれ、啓示に根付いており、でも人間の不完全さと誤ちとが混ざっており、それゆえ振るわれる必要のある「預言という御霊の賜物」、という三番目のカテゴリーが、私たちには必要です。

ふるいにかけられると言うのは、1テサロニケ5:19―22で、それが実際に成されているからです。預言者が本物か偽物かを吟味されるのではありません。預言が良いものか悪いものかを見分けるため、ふるいにかけられるのです。「御霊を消してはなりません。預言をないがしろにしてはいけません。しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。悪はどんな悪でも避けなさい。」これは本物の、誤りのない預言者か、あるいは偽物の、出しゃばった預言者のどちらか/あるいはという状況ではありません。預言の中には良いものも、良くないものもある、という状況です。

パウロはこの不完全さのゆえに預言をさげすむと、私たちは御霊を消すことになる、と言います。皆さんが心からそれを避けたいと思うよう願います。私たちはどのようにすべきでしょうか?それについてはもっと言うべきことがあります。それを理由と実践的応用を加えて、今晩取り上げます。主ご自身が今日の午後にでも私たちにお教え下さいますように。


1 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用