神は不敬虔な者を義と認められた

しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。22すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。23すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、24ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、値なしに義と認められるのです。25神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されてきた罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。26それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。27それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。28人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。29それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。30神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。31それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。4:1それでは、肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。2もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。3聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。4働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。5何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。6ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。7「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。8主が罪を認めない人は幸いである。」1

神の義の立証

先週私は、キリストの死によって解決された非常に難しい問題とは、罪の宣告を受けて当然である数多くの罪を見のがして来られたことで、神ご自身が不当であられるように見えるという問題であることを、お見せしようとしました。 旧約聖書全体が神は「あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す」(出エジプト34:6―7)お方であることが、まことであることを証ししています。

そして私たちの罪や義についての考え方が神中心になるまで、私たちはこの問題に気づくことはないと、私は言いました。

罪(ローマ3:23)は本来、人に対して犯されるものではありません。それは神に対して犯されるものです。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」。罪を犯すというのは常に、この世のものを神よりも大切にすることです。それは主の栄光を軽くあしらうことです。主のみ名を汚すことです。

しかし神の義とは、最終的に正しいこと、すなわち、主のみ名の栄誉と主の栄光の価値を保つことに対する、主の義務です。義は罪の逆です。罪とは主と逆のものを選ぶことによって神のみ価値を軽くあしらうことで、義とは神を選ぶことによって神のみ価値を大きく見せることです。

それゆえ神が罪を見のがし、罪人を裁くことなく自由にされるとき、主は不正なお方であるかのように思われます。あたかも「わたしの価値をあざ笑うのは大したことではない、わたしの栄光を軽くあしらうことはささいなこと、わたしの名を汚すことなど一向に構わないよ」と言っておられるかのようです。もしそれが本当であるならば、神は不正なお方です。そして私たちに希望はありません。

しかし神はそれを肯定されませんでした。主はご自分の御子、イエス・キリストの死を通して、神が義であられることを示すため、御子を全面に押し出されました。神の御子の死は、ご自身の栄光の価値、そして罪に対するご自身の憎しみ、罪人に対するご自身の愛の宣言です。

不敬虔な者を義と認める

神が不正なお方であられるかのように見える、罪を見のがすという行為の別の言葉は、「義認」、つまり、不敬虔な者を義と認めること(ローマ4:5)です。それが今日私がお話ししたいことです。神が罪を見のがされたのは大昔だけでなく、主はご自身の民の罪、つまり私たちが昨日、あるいは今朝犯した、また明日犯すであろう罪も、見のがされているという事実をお話ししようと思います。

26節では、イエス様が死なれたとき、一つだけでなく、二つのことが起こったと言われています。「それは[キリストの死は]、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」神が義であられることが示され、そして信じる者たちが義と認められるのです。

ところで今日は私たちが義と認められる、主観的な信仰の行いについては注目したくありません。義と認められる神の客観的なみわざについて注目したいと思います。なぜならもし私たちが何をするかではなく、神が何を成されるのか、その偉大なみわざについて注目するなら、それを受け入れる、心から沸き起こる信仰を、私たちが見出すからです。

イエス様を信じることを通して賜物を受ける者たちにとって、義と認められることが意味する4つのことを、見ていきましょう。

1. 私たちの罪のすべてが赦される

第一に、義と認められるというのは、私たちの罪のすべてが赦されるということを意味します。

過去、現在、未来のすべての罪

ローマ4:5―8で、パウロが旧約聖書を引用して義認の真理を説いているのを見てください。

「5) 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。6) ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。7) 『不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。8) 主が罪を認めない人は幸いである。』」

これが義認のまさに中心にあるものです。7―8節の、「不法を赦され」、「罪をおおわれ」、「主が罪を認めない人」のこれら3つの素晴らしい表現を大切にしてください。

パウロは、赦される罪が私たちが信じる以前に犯したものに限っていないことに、注意してください。あなたの過去の罪は赦されたが、未来は容易には手に入らないよ、というような制限は一切していません。義認の恵みとは、不法が赦され、罪がおおわれ、「主が罪を認めない」ということです。それは絶対でありまた無条件であると、明言されています。

それはキリストが私たちの罪と咎を負ってくださったから

主はそれをどのように成されるのでしょうか?ローマ3:24では私たちは「キリスト・イエスによる贖いのゆえに」義と認められる、と言います。「贖い」という言葉は、ある束縛や監禁から自由にする、釈放する、あるいは解放することを意味します。ですからポイントは、イエス様が私たちのために死なれたとき、主は私たちを自分の罪の束縛から解放してくださった、ということです。私たちを罪に定めていた罪の縄目を、主は断ち切ってくださったのです。

ガラテヤ3:13でパウロは、「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」と言います。ペテロは(1ペテロ2:24で)、「[キリストは]自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に追われました」と言います。イザヤは「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」(53:6)と言います。

それゆえ義認、つまり罪の赦しは、キリストが私たちの罪を負ってくださり、私たちののろいを負ってくださり、私たちの咎を負ってくださり、そして罪の定めから私たちを解放してくださったため、実現するのです。

キリストはたった一度苦しまれた

主はたった一度苦しまれた、ということに注目してください。主は、聖餐式やミサで、あたかも主の最初の犠牲が不十分だったかのように、毎回ほふられているのではありません。ヘブル9:26では、「キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです」と言います(ヘブル7:27参照)。9:12でも、「やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」と再度言います。これは十字架上で神が私たちのために成されたことの栄光を理解するためには、非常に重要です。

ただ一度切りのキリストの死と、あなたの罪と神の民すべての罪の全体性の関係が見えますか?それはある一部の罪、あるいは特定の種類の罪、あるいは過去の罪のみではありません。キリストがご自身のすべての民から取り除いたのは、罪、すべての罪です。

それゆえ義認の赦しは、私たちの過去、現在、未来の罪すべての赦しです。キリストが死なれたとき、それが起こったのです。

2. 縁もゆかりも無い方の義をもって義とみなされる

義と認められるというのは、神の義が私たちに転嫁され、義とみなされる、あるいはその義が私たちのものとみなされる、ということを意味します。

私たちは神のみ前に立場の無いまま、ただ赦されるのではありません。神は私たちの罪を取りのけられるだけでなく、私たちを義とみなされ、神との正しい関係においてくださるのです。主は私たちにご自身の義をお与えになるのです。

イエス様にある信仰を通しての神の義

21―22節を見てください。パウロは20節で、律法を行うことによっては誰も義と認められることはないと、言ったばかりです。戒律主義的努力の基盤によっては、あなたは神との正しい関係を得ることはできません。そして彼は(どのようにして義と認められるかを示すため)、「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。22) すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません」と言います。

それゆえ律法を行うことによっては誰も義と認められないのですが、イエス・キリストを信じる信仰を通してあなたが持つことのできる神の義があるのです。これが、義と認められるというのは義とみなされるという意味だと、私が言うものです。信仰によって、神の義が私たちのものとされるのです。

先週私たちが25―26節から見たように、神の義を現すためイエス様が死なれたとき、主はその義を、賜物として罪人が得ることができるようにしてくださるのです。もし神が罪を見のがされたことで義であられることを、キリストが死ぬことによって示されなかったのなら、神の義を示す唯一の方法は、私たちを罪に定めることによってしかありません。しかしキリストは死なれたのです。ですから今や神の義は、罪の宣告ではなく、信じる者すべてにとっていのちの賜物なのです。

2コリント5:21

2コリント5:21はこの義の転嫁の素晴らしい賜物についての、息を飲むような最も素晴らしい聖句の一つです。「神は、罪を知らない方[キリスト]を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」

キリストは罪を知らないお方でした。主は完璧な人であられたのです。罪を犯したことがおありになりませんでした。ご自身の生涯と死において、神のご栄光のために完全に生きられたのです。主は義であられました。その反対に私たちのすべては罪を犯したのです。神のご栄光を軽くあしらってきました。私たちは不義の者たちです。

しかしキリスト・イエスにあって私たちをこの世の初めからお選びになった神は、キリストを、罪人ではなく、罪、つまり、私たちの罪、私たちの咎、私たちの罰、私たちの神から離れた状態、私たちの不義、とすることによって、見事な交換を定められたのです。そして主はキリストが見事に立証された神の義を取って、キリストが私たちの罪を背負われたように、神の義を私たちに負わせ、着せ、所有させられるのです。

ここでのポイントは、キリストが道徳的に罪人になられ、私たちが道徳的に義となる、ということではありません。ポイントは、キリストがご自分とは縁もゆかりも無い罪を負って苦しまれ、私たちが縁もゆかりも無い義を受けそれによって生きる、ということです。

義認は聖化より先に起こる

この客観的な現実が私たちの外部にあることを見てください。これは聖化、つまり私たちの考え方、感じ方、生き方の上で道徳的に義とされる、実際の過程の実現にまだ至っていません。それそのものも賜物です(次の3週でそれを見ていきます)。しかしそれ(聖化)はこれ(義認)を基とします。部分的に義と認められたところにまことの福音を進展させる前に、私たちは完全に義と認められたと信じなければなりません。あるいは別の言い方をすれば、神の力によって実際に私たちが打ち勝つことができる罪は、赦された罪です。義認の素晴らしい賜物は、聖化の過程より先に起こり、そして聖化を可能にします。

3. 神に愛され、恵みをもって取り扱われる

義と認められるというのは、神に愛され恵みをもって取り扱われるということを意味します。

キリストは神の私たちに対する愛の度合いを証明する

もし神があなたを愛されなかったのなら、ご自分の御子の死によって解決すべき問題は一切なかったはずです。ご自身のあなたに対する愛のゆえ、主はあなたの罪を見のがされ、そのため主は不正なお方であるかのように見えました。もし主があなたを愛されなかったのなら、私たちのすべてを単純に罪の滅びに定めることによって、罪の問題を解決されたはずです。それで神の義が立証されたはずです。しかし主はそうされませんでした。その理由は、神はあなたを愛しておられるからです。

これはローマ5:6―8でもっとも美しく描かれてあります。

「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

神がご自分の御子の死において証明しておられるのは、ご自身の義だけでなく、ご自身の愛の度合いをも証明しておられます。

神の無償の賜物

ローマ3:24でパウロは、私たちは「神の恵みにより、・・・値なしに」義と認められる、と言います。神の罪人に対する愛は、恵みの賜物、つまり、私たちの行いや私たちの価値からくるのではなく、神の惜しみない慈悲深さから来る賜物に、満ちあふれています。

罪の赦しと神の義は、無償の賜物です。それはキリストがご自身のすべてを犠牲にしてくださったので、私たちは一切支払う必要がない、ということを意味します。行ないや、親から受け継いだり、儀式を取り入れることによって得られるものではありません。それは無償で、信仰によって受けるものです。

ローマ5:17では次のように言います。

「もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」

罪の赦しと神の義は、神の愛からあふれ出る、無償の賜物です。

義と認められるというのは、赦され、義とみなされ、神から愛される、ということを意味します。

4. 神によって永遠に保証される

最後に、義と認められるというのは、神によって永遠に保証されるということを意味します。

これはこの上ない恵みです。パウロはローマ8:30で、それを宣言します。「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」

もしあなたが義と認められているのなら、あなたは栄光を受けます。来るべき世の栄光を受け、喜びと聖のうちに神と共に永遠に生きるのです。どうしてそうはっきりと言えるのでしょうか?

なぜなら神の御子の死の効果は神の民にとって実在するものであり、現実であり、確かであり、無敵だからです。それが達成したものは、永遠に達成されます。キリストの血潮の効果は、今救う力があったかと思うとその力を突然失ったり、失ったかと思うと救うことができたりと、当てにならないものではありません。

これが32節、「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」のポイントです。すなわち、主は私たちに栄光をお与えにならないことがありましょうか!そうです!私たちの義認を確保するその同じ犠牲が、私たちが栄光へと変えられることをも確保するのです。

もしあなたが今朝義と認められておられるなら、あなたは罪の告発と罪の定めを越えています。33節、「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。」もし神が、ご自分の御子の死を通してあなたを義と認められたのなら、誰も、天においても地においても地の下においても、あなたを告発することのできるものはいないのです。あなたは栄光を受けます。

なぜでしょうか?あなたに罪がないからでしょうか?いいえ。あなたがキリストの血潮によって義と認められているからです。


1 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。

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