バプテスマが表すもの 

律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。21 それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです

6:1 それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。2 絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。 1

今日がこの短いバプテスマのシリーズの最後のメッセージです。もっと言うべきことがあります。もし皆さんの質問に答えていなかったなら、お許しください。でもこれらのことを話し合う機会が様々な場であると思います。

この夏の初めにここで、このシリーズを発展させる私たちの主要な動機は、新約聖書はキリストに人前で堂々と来るよう人々を招いていると、私たちが信じるということであると言ったのを思い出してください。私たちはすでに信者である者が公に(キリストの)証人になるのを見たいですし、その証とみことばの奉仕を通して信者になる者が起こされるのを、ここでこの夏を通して見たいです。

イエス様はなぜバプテスマという行為を定められたのか?

私たちは時として、なぜバプテスマのこの行為をイエス様はお定めになったのか、疑問に思うことがあるかも知れません。なぜバプテスマというものがあるのでしょうか?もし救いが恵みにより、信仰によるものであるのであれば、なぜその信仰を行動で示す儀式や象徴するものを制定されたのでしょうか?聖書はそれに答えません。でも体験を通して興味深いことを学ぶことができます。

例えば、3週間前、私の最初のメッセージの後に、フィリピンへ遣わされたことのある宣教師が来て、メッセージ・シリーズに感謝していることを述べ、そしてなぜ感謝するのかその理由を教えてくれました。名ばかりの、そして混合したカトリック教徒が多いフィリピンでは、彼女が言うには、(プロテスタントへの)改宗者は大目に見られ、バプテスマを受けるまで、家族に(その改宗を)気づかれることがほとんどないそうです。その(バプテスマの)後敵意と離別という、聖書が予告するものが起こりるのです。この新発見した信仰の、公の儀式には、この人の立場と、この人が何をしているかを明確にさせる何かがあります。言い換えれば、今日の多くの文化で起こるこの境遇は、バプテスマのヨハネの境遇とよく似ています。ヨハネは悔い改めのバプテスマを説くために来、そして必要なものはすべてすでに持っていると思っていた者たちが、彼に激怒しました。

その同じ週にこの宣教誌(『夜明けの報告”The Dawn Report”』、5月30日出版)が出版されました。7ページに、宣教地のある川で男性が一人バプテスマを授けている写真がありますが、その写真の下に、「アウトドアの奉仕と川での受洗式は時として成長にとって最善の車(目的達成手段)である」という説明文があります。バプテスマがキリストにある信仰の表現と、主と主の民と一つとされるという表現方法としてお定めになった神の、様々な理由のそのすべてを、私たちは全く理解できません。それが良いことであるといういくつかの理由は考えられますが、恐らく神が意図されるその良い影響すべてを思いつくことさえ、私たちはできません。結局のところ、それ(バプテスマ)はご自分の成されることを理解しておられるみ父を信じるということを表す行為であり、私たちは主のご命令に喜んで従います。

浸礼か滴礼か?

今日はローマ5:20―6:4前半からその行為の意味をもう少しお見せしたいと思います。バプテスマの様式、すなわち滴礼よりも浸礼、ということに関する皆さんの質問にも向き合います。実際、滴礼ではなく浸礼、ということに関する一般的言葉で始めさせてください。新約聖書の意味とバプテスマの慣習は、浸礼によるものであるということを信じる、少なくとも3つの理由がそこにはあります。1) ギリシャ語のbaptizo という言葉はおもに、「浸す」、あるいは「沈める」という意味で、ふりかけるという意味ではありません。2) 新約聖書にあるバプテスマは、水を容器に入れて運んできて注ぐ、あるいはふりかけるというよりも、人々がどっぷり浸かれるよう水辺に下って行くという風に描写されています(マタイ3:6「ヨルダン川で」、3:16「イエスは・・・水から上がられた」、使徒8:38「水の中へ降りて行き」)。3) 浸礼はキリストと共に葬られるという象徴と一致します(ローマ6:1―4、コロサイ2:12)。

何時間もここにとどまりませんが、私たちの教会と教団が浸礼によるバプテスマを、一地域の契約共同体(キリストの宇宙的からだではなく、)における会員制の決定的部分にしているという事実を、私たちがどのように理解すればよいかについて、一言言わせてください。私たちはバプテスマの様式が救いにとって必要不可欠な行為であるとは信じていません。ですから私たちは一個人のクリスチャンとしての位置を、ただ単なるバプテスマを受けた様式をもとに、疑問視したりはしません。「それなら本当に生まれ変わった人たちではなく、信者として滴礼を受けた人たちを会員として受け入れるべきなのではないか?」と質問する方がおられるかも知れません。私たちがそうしない、2つの主な釈明があります。

1) もしキリストが任命された型から離れてしまう十分な証拠であると私たちが認めるのに、人が造った方法でのバプテスマを「バプテスマ」と呼ぶべきでしょうか?これは、キリストご自身がこの聖礼典で任命された意義を、軽くみなす危険を冒すことにならないでしょうか?

2) 教会と呼ばれるキリスト教の地域の共同体は、共通の聖書信念、救いに関して必要不可欠なものであったりそうではないものもありますが、その信念を中心にして築かれています。人の救いに関して、可能な限りもっとも狭い信仰によって、私たちが共にする契約のいのちを定義したりはしません。むしろ、キリスト教信仰の共同体が、自分たちの信念が疑問視されるたびに会員制の意味を再定義するより、自分たちを聖書信仰を持つ群れとし、群れに力になることによって、真理の重要性とみことばの権威がより尊ばれることを私たちは信じます。個々のクリスチャンの共同体が愛し合い、他の信者らに兄弟愛を示しつつこれを成すとき、真理と愛の両方がいきわたります。例えば、ベツレヘム教会で行われる牧師のためのカンファレンスに招く講演者たちのほとんどは、この教会の会員になることができないという事実こそ、私たちが愛と一致を真剣に受け止め、真理を真剣に受け止めていることを語っています。

共同体を定義する上で代々、どの非重要な教理を含めるかというのは、主として環境や、どの真理が強調されなければいけないかという状況によって変わります。

バプテスマが表すもの

そういったことを背景に、バプテスマが何を表すのか、また補助的に、バプテスマの様式に何が適用されるのかを、ローマ5:20―6:4に見ていきましょう。ここでの私のねらいは、バプテスマが指し示す栄光ある現実を皆さんにお見せすることです。そうすれば第一に、その現実に皆さんがとらえられ、そして二番目に、その行為の美しさと意義が、皆さんの頭と心に沸き起こるからです。ローマ5:20―6:4、

「律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。21 それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。

6:1 それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。2 絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。 」

この聖書箇所の最も素晴らしいことの一つは、もしバプテスマが何を表すかをあなたが理解するなら、クリスチャンになった時に実際に自分に何が起こったのかをあなたは理解する、ということです。私たちのうちのほとんどは、ほとんど何も知らないままで信仰を持ち、バプテスマを受けました。これは良いことです。バプテスマは、あなたがほとんど何も知らないとき、クリスチャン人生の最初に起こるものです。ですからそれが何を意味するのかは、後々になって学ぶものでもあります。

「ああ、バプテスマを受け直さなきゃいけない。これだけの意味があったなんて、知らなかったよ」と思わないでください。いえいえ。ということは聖書神学の新しい課目を受けるたびに、あなたはバプテスマを受けることになります。むしろ、イエス様に従うことを単純な信仰で過去に表し、それが何を意味するかを現在徐々に学んでいることを喜んでください。それをパウロはここでしているのです。彼は読者が自分が受けたバプテスマの意味を理解していることを望みつつ、万が一彼らが理解していないか、忘れてしまっている場合を考え、敢えて教えます。神の御前でかつて自分が表したものと、クリスチャンになることで実際に自分に何が起こったのかということを、この聖句から学んでください。

この聖句に従って、バプテスマが表すことの二つだけを扱います。

1) バプテスマは、キリストの死にある私たちの死を表します。

3節と4節前半、「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。」これは私たちクリスチャンについての素晴らしい真理です。私たちは死んだのです。キリストが死なれたとき、私たちの死を死んでくださったのです。これは少なくとも二つのことを意味します。1) 一つは、私たちはかつての自分ではない、ということです。古い自分は死にました。もう同じ自分ではないのです。2) 自らの将来の物理的死は、もしキリストが私たちの死を死んでくださらなかったら同じ意味であったはずですが、私たちにとってもう同じ意味ではありません。私たちはキリストとともに死んだので、そして主は私たちの死を死んでくださったので、私たち自身の死は恐ろしいものであるはずだったのが、もう恐ろしいものではありません。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか」(1コリント15:55)。その答えは、死のとげと勝利はキリストによってぐっと飲み込まれた、です。先週(のメッセージを)思い出してください。主は水槽タンクを飲み下さたのです。

3節と4節の「に」という言葉の復唱に注目してください。「キリスト・イエスに」つくバプテスマ(3節)、そして「キリストの死に」あずかるバプテスマ(4節前半)。これが何を言っているのかというと、バプテスマは私たちのキリストと一致することを表しており、すなわち、主の死が私たちの死となり、主のいのちがわたしたちのいのちとなるため、私たちは霊的に主と一つとされるのです。私たちはこれをどのように体験するでしょうか?これが実際に自分に起こったと、どのようにして知ることができるでしょうか?それは、信仰によって体験されます。これと類似した聖句に聞くことができます。ガラテヤ2:20でそれを信仰とつなげています。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、・・・神の御子を信じる信仰によっているのです。」言い換えれば、死んだ「私」は不信仰で反抗的な古い「私」であり、生きるようになった「私」は信仰による「私」、つまり、「肉にあって生きているのは、・・・神の御子を信じる信仰によっている」私です。そしてこれらすべての基盤が、キリストと一つとされること、つまり、「キリストが私のうちに生きておられる」ということです。主の死は私の死であり、主のいのちは私のうちに生きているいのちです。

これを説明している他の箇所は、コロサイ2:6―7です。「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、・・・。」ここで、キリストにある信仰が、キリストと一つとされたことを体験する方法であると、再度確認することができます。主を主として、また救い主として受け入れ、その信仰によってあなたは主と一つとされ、「主にあって」歩み、「主にあって」建てられるのです。

ですからローマ6:3―4前半が私たちはキリストにつくバプテスマとキリストにあずかるバプテスマを受けたというとき、私はそれを、バプテスマが、私たちがキリストとの一致を体験することにある信仰を表現する、という意味であるととらえます。恐らくこのため神は、バプテスマの様式が埋葬を表すよう設計されたのだと思います。私たちがキリストと一つとされるとき、私たちが体験する死を象徴します。それゆえ私たちは水にどっぷり浸かります。それは埋葬を象徴します。

ですから信者の方、あなたはすでに死んだということを知ってください。不信仰で反抗的な古い「私」はキリストとともに十字架につけられたのです。これがバプテスマが(バプテスマを受けたときに)表したもので、また今現在も表すものです。

2) バプテスマはキリストにある新しいいのちを表します。

4節、「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストがみ父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」バプテスマの水に浸かったままの人はいません。私たちは水から上がります。死の後には新しいいのちがやって来ます。不信仰と反抗であふれた古い「私」は、信仰によってキリストと一つとされたときに、死にました。しかし古い「私」が死んだとたん、新しい「私」、つまり、言ってみれば死からよみがえった霊的に新しい人が、生まれるのです。

この真理についての最も重要な注釈は、コロサイ2:12です。パウロは、「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。」ちょうどローマ6:4で、私たちはいのちにあって新しい歩みをすると言われているように、私たちはキリストとともによみがえらされたと言うところに注目してください。そしてちょうどローマ6:4で、キリストはみ父の栄光によって死からよみがえられたと言われているように、死から主をよみがえらされた神の御力が、そこにはあるのです。これはイエス様を死からよみがえらされた神の御力にある信仰を通して、起こります。

ですからコロサイ2:12は、バプテスマはイエス様を死からよみがえらされた神の御力にある信仰を表すとローマ6:4で暗示するものを、明示します。キリストは墓からよみがえられ、天の御国にあるみ父の右の手で今日君臨しておられ、力と栄光のうちにそこから戻って来られると、私たちは信じます。そしてパウロが神の栄光と呼ぶ、神のみ力にある信仰こそ、キリストご自身のうちにある、新しいいのちに私たちがあずかる方法なのです。

実際、新しいいのちとは、神のご栄光とみ力を信じるいのちです。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、・・・神の御子を信じる信仰によっているのです。」新しいいのちとは、神の栄光である、神のみ力を日毎に信頼するいのちです。

バプテスマはクリスチャンになったとき私たちに何が起こったのかを表す

ではまとめに入って、結論を出しましょう。バプテスマは、クリスチャンになったときに私たちに何が起こったのかを表します。私たちはキリストと一つとされた、これが私たちに起こったことです。主の死が私たちの死となりました。私たちは主とともに死んだのです。そしてそれと同時に、主のいのちが私たちのいのちとなりました。今や私たちは私たちのうちにおられるキリストのいのちに生きています。そしてこれらすべてを、私たちは信仰をとおして体験します。

バプテスマが表す現実に生きる、これがクリスチャンであるという意味です。日毎に私たちは自分たちから目をそらし、神を見て、こう言うのです。「あなたの御子、キリストのゆえに、私はあなたの御前に進み出ます。主にあって、私はあなたのものです。あなたとともにおります。主があなたに受け入れられる唯一の希望です。私は毎日あなたに新しく受け入れられます。私の希望は主の私のための死と、主にある私の死に基づいています。主にある私の人生は、父よ、あなたにある信仰の人生です。主のゆえに、私は私のうちに、そして私のために働いているあなたのみ力を信じます。主を死からよみがえらされたあなたの御力と栄光で、あなたは私をお助けくださいます。その将来の恵みのみ約束を私は信じ、それに望みをおきます。それこそが私のいのちを新しくします。ああキリストよ、私のバプテスマが表すものを、私は何と誇りに思うことでしょうか!私の死を私のために死んで下さり、新しいいのちをお与えくださったことに、感謝します。アーメン」


1 新改訳聖書、日本聖書刊行会出版、1970年版引用。以下脚注がない限り同訳引用。

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